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「岡村」の意味・読み・例文・類語
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
岡村
おかむら
[現在地名]伊達町 荒町・一本杉・一本木・右城・姥ヶ懐・姥川・岡沼・岡前・川原田・鍛冶屋川・北畑・坂ノ上・坂ノ下・下川原・雪車町・鶴田・塚畑・堂ノ内・長岡・梨子木町・中畑・原島・日照・広前・堀切畑・前川原・宮前・水抜・向川原
現伊達町の中心街をなし、東は阿武隈川を境に伏黒村・箱崎村、西は奥州道中を挟み長倉村、北は桑折村(現桑折町)、南は信夫郡瀬上村(現福島市)。平坦地に立地し、水田と畑地が混在する。天文三年(一五三四)四月二九日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に、長倉郷のうちとして河原田・前川原などがみえ、菱沼藤十郎に安堵されている。両地名は当地の小字に継承されている。同年一二月一三日の伊達稙宗証状写(同文書)に伊達清三郎(宗栄)知行分として「岡村五貫文」とあり、清三郎が極楽院善栄の世継と定まったため、当地などが極楽院に与えられている。
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七一四石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ六分、家数一二(役家六、肝煎二、山伏・脇家四)、人数五三、役木として桑・楮がそれぞれ少しある。
岡村
おかむら
[現在地名]西京区樫原〈畔ノ海道・池ノ上町・石畑町・井戸・芋峠・宇治井町・宇治井西町・内垣外町・江ノ本町・大亀谷・岡南ノ庄・上池田町・上ノ町・釘貫・口戸・久保町・甲水・五反田・権現原・里ノ垣外町・鴫谷・下池田町・下ノ町・勝後谷・杉原町・角田町・蛸田町・田中町・茶ノ木本町・塚ノ本町・佃・百々ヶ池・中垣外・庭井・硲町・秤谷町・八反田・比恵田町・平田町・盆山・前田町・水築町・三宅町・山路・山ノ上町・六反田・分田〉
山陰道が、四条街道と西国街道を結ぶ物集女寺戸道と交差する交通の要地で、近世は樫原宿の街村でもあった。
岡村
おかむら
[現在地名]伊東市岡・岡広町・末広町・寿町・幸町・弥生町・桜木町一―二丁目・広野一―四丁目・湯田町・音無町・馬場一―二丁目・瓶山一―二丁目・大原一丁目・竹の台・物見が丘・宝町
伊東大川の中流域で、浜地域の村(湯川・松原・和田など)に対する岡地域の村。右岸の本郷と左岸の枝村広野・小川からなる。永享六年(一四三四)一二月二九日に万寿院に打渡された伊東庄内九ヵ村のなかに「岡村」がある(「中原師貞打渡状」円覚寺文書)。北条氏所領役帳には北条家臣御馬廻衆伊東九郎三郎政世の所領として七〇貫文「豆州伊東之内岡」がみえる。また前掲中原師貞打渡状にあげられる犬田・泉・小河・広野は岡地区内の字名。明応四年(一四九五)二月五日の伊勢長氏判物(伊東文書)によれば伊東伊賀入道祐遠が戦功として「伊東七郷之内本郷村」を知行地として与えられている。
岡村
おかむら
[現在地名]角田市岡
阿武隈高地北東端の丘陵とその南の低地を挟んだ小丘陵一帯に広がり、西から白水川(内川・雑魚橋川)が流れ、南西から流れる高倉川支流泉川を合せて東流する。南から北西へ大河原道が通る。北は君萱村、南は花島村、東は江尻村に接する。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「をかのむら」とみえ、三貫六〇〇文。同二二年集成の晴宗公采地下賜録で亀岡備前守に下されている、伊具庄西根の後藤大炊助分「下をか、一大在け、一なへ在け、一まる山」は当村南部をさすと思われる。また段銭古帳にみえる八貫二五〇文の「うちやかう」は当村内谷に、晴宗公采地下賜録で沼辺玄蕃に下されている「あけちたうとをミかいち、いくにしね白岩のかうのこさす」は白岩に比定される。同書で細目修理亮に安堵されている「新山のうち、一きちかう内一けん」も「安永風土記」にみえる当村新山屋敷の地にあたるともされる。
慶長三年(一五九八)以降石川氏の知行地。寛永二一年(一六四四)の同氏知行目録(石川俊直家文書)では五七貫八六七文。
岡村
おかむら
[現在地名]関前村岡村・小大下
高縄半島の先端、現波方町梶取ノ鼻の北方海上約六キロにある岡村島と、大下島の属島小大下島の一部からなる。東は大下島、西は現広島県大崎下島、北は同大崎上島に相対する。岡村の集落は、島の東南に面した湾入部に密集し、東の里浦、西の宮浦と二つの字に分れているが、家並は続いている。そのほか、大崎下島御手洗の対岸にあたる所に、幕末近くに開かれた白潟の小集落がある。里浦東端には城の下という小字があるが、中世末の城跡の下にあたる所と推定される。ちなみに、中世海賊城塞図(旧松山藩士野沢家蔵)をみると、岡村島に城の印がある。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項には「岡村 日損所、柴山有、林少有」とみえ、村高は九三石一斗一升五合である。享保末年の「越智島旧記」によると、田畑面積は、田二町九反八畝七歩、畑一一町二反九畝六〇歩で、六反五畝余の新田畑がある。家数は一三七軒、うち水主役家一九軒、御百姓家八五軒、無給家二一軒、隠居家一二軒、人数は七一一人。
寛政一一年(一七九九)の伊予国越智郡之内嶋方村々人家問屋船漁師書抜帳(岩城村教育委員会蔵)によると、家数一八四軒、人数八八九人と、享保期(一七一六―三六)に比べてかなり増加している。
岡村
おかむら
[現在地名]菰野町千草
海蔵川の上流南岸の平地に位置し、北西方には福松村がある。江戸時代、文政五年(一八二二)までは桑名藩領、翌年より武蔵忍(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)以降幕府領で信楽(現滋賀県)代官所支配、安政元年(一八五四)以降再び忍藩領。村の成立については、慶安郷帳(明大刑博蔵)にはみえず、元禄郷帳には千草村の枝郷として現れる。「五鈴遺響」には音羽村の属邑とあるが、元禄一四年(一七〇一)の山田村名主以下四名の申状(辻家蔵)には「千草村出郷岡村長右衛」とあり、福松村とともに、西方の千草村を中心とする千草三郷としての結合が強かった。
岡村
おかむら
[現在地名]藤井寺市岡一―二丁目・北岡一―二丁目・藤井寺一丁目・同四丁目・春日丘一―三丁目・春日丘公団・恵美坂一―二丁目・御舟町・小山一―二丁目
藤井寺村の西から北にかけてを村域とし、集落は藤井寺集落から北上してきた大坂道に沿って南北に細長く形成されている。集落の北端近くで、東進してきた長尾街道が大坂道と合して一本となり、右折して集落中を南下、南端近くで大坂道と分れて左折、再び東に向かう。村の南部にはミサンザイ古墳がある。古代には志紀郡に属したが、のち丹南郡に所属。延元二年(一三三七)三月日の南朝方岸和田治氏の軍忠状案(和田文書)に「岡村北面」で合戦のあったことが記される。下って明応二年(一四九三)三月畠山両軍合戦の折にも、将軍足利義稙・畠山政長軍の陣取次第に「岡誉田より十八町、細川讃州、三吉衆」とみえる(「蔭涼軒日録」同月二日条)。また「大乗院寺社雑事記」長禄二年(一四五八)七月一一日条によると、奈良興福寺東金堂領岡村庄内の剛琳寺(葛井寺)が、岡村庄岡村入道と造内裏段銭賦課をめぐって争っており、岡村庄の存在が知れる。
岡村
おかむら
[現在地名]稲美町岡
国安村の南東、印南野台地上で高位段丘に位置する。南部は手中流が枯川と名を変えて北東から南西へ流れ、南に接する六分一村との境界をなしている。六分一村から当村を通り北西へ延びる道は、二見湊(現明石市)と別所、三木とを結ぶ。また村内の中央を東西に結ぶ道は福留・石守(現加古川市)から野中清水(現神戸市西区)を経て神出・太山寺(現同上)および摂津へ通じ(大住文書)、山陽道の脇往還的役割を果した。「播磨鑑」には、土山村(現加古川市)から当村まで印南野御幸道がかつてあり、車のわだちの跡が残っていると記される。
岡村
おかむら
[現在地名]磯子区岡村一―七丁目・滝頭一―二丁目・広地町・磯子四―九丁目、南区大岡一丁目・同三丁目
東は滝頭村、西は下大岡村(現南区)、南は森公田村、北は蒔田村(現南区)に接する。中世には磯子村・滝頭村とともに禅馬郷とよばれた(風土記稿)。文禄四年(一五九五)八月の検地帳(横浜開港資料館蔵)に「久良岐郡之内善間村之内岡村」とある。
近世は初め幕府直轄領、元禄一〇年(一六九七)旗本藤川・竹尾・久世領の三給。同七年の田二五町二反余、畑二二町一反余、百姓山一一町四反余、散在野一町二反余(「高反別指出帳」同館蔵)。「風土記稿」は用水に谷間の清水を用いるとする。天保一四年(一八四三)の村明細帳(横浜開港資料館蔵)によれば長さ三〇間、横二〇間の溜池があるが荒地となり用水には利用できないと記され、ほかに用水の設備はないとある。
岡村
おかむら
[現在地名]明日香村大字岡
橘村の東、飛鳥村の南に接続する。近世、西国三十三所観音霊場の一つ岡寺参詣の宿場町として繁栄した。「西国名所図会」には次のように記す。
<資料は省略されています>
文禄検地による村高は四八二石。検地奉行は石田正澄。近世を通じて高取藩領。近世初期は高取城への大手口。鎮守は八幡宮、ほかに天照大神を祀る小宮があった。寺院には朱印地をもつ岡寺(竜蓋寺)のほか、常谷寺(浄土宗)・峯の堂(真言宗)・大師堂があった(地方蔵方寺尾勤録)。
飛鳥寺の西南方、飛鳥川の右岸に弥勒石がある。小字木ノ葉と下川戸の字界に立つ石仏で、その大きさは、高さ約二・五メートル、幅約一・二メートル、奥行約一メートル。
岡村
おかむら
[現在地名]竜洋町岡
天竜川下流域東岸に位置し、南は西平松村、西は同川を挟んで掛塚輪中。「円通松堂禅師語録」に円通寺(現掛川市)の松堂高盛と親交のあった藤原安義の居住地として河勾庄岡郷とみえる。天正九年(一五八一)三月七日の竜沢寺再建勧化帳写(竜沢寺文書)に当地聖寿寺が載り、「遠州岡ミツケノ奥ノ一里下ナリ」と注記される。
正保郷帳に村名がみえ、幕府領。田三二石余・畑六三石余、正寿寺(現聖寿寺)領五石。元禄郷帳では高一七四石余。領主の変遷は西平松村に同じ。享保三年(一七一八)の高一六一石余(うち畑一一三石余)、家数五五(うち本百姓四九・水呑百姓六)・人数二二七、馬四、圦一・橋四、職人は木挽二、ほかに地引網運上(「川東三拾弐ヶ村村調書上牒」磐田市誌編纂室収集文書)。
岡村
くずおかむら
[現在地名]大内町葛岡
芋川の中流左岸の河岸段丘上にあり、対岸は東に平岫村、西に長坂村。村の中央を老方街道が通り、東の中田代村との間は早坂とよぶ難所。南の山地近くに大沢・里などの小集落がある。
慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、新沢郷の一村として村名がある。寛永二年(一六二五)には高三六二石七斗四升五合、納米一九九石五斗一升、免五ツ五分(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に三〇〇石五斗八升二合、そのうち畑は五石三斗六升で、「水損所 小川有 新開有」とある。
岡村
おかむら
[現在地名]岡部町岡
櫛挽台地の北端に位置し、東は岡下村、北は小山川を境に滝瀬村(現本庄市)・町田村(現深谷市)。村の北方を中山道、南方を八幡山道(児玉道)が通る。用水は小山川から取水する西田用水と四王天用水を利用(郡村誌)。もと砂田村と称したが、天正年間(一五七三―九二)に岡村と改称したという。台地上に立地したのが村名の由来とされる。地内にある岡部城跡は鎌倉期の築造と伝え、室町期の遺構が残っている。元禄(一六八八―一七〇四)以前に岡下村を分村したとみられる。田園簿では田方四四二石余・畑方四一三石余、旗本日向・小西の二家の相給、ほかに日向領に高入れされた山役金四両と社領七石余・岡林寺(現真言宗豊山派)領二〇石・谷正寺(現岡部の曹洞宗全昌寺の誤記)領一〇石がある。
岡村
おかむら
[現在地名]枚方市岡〈東町・山手町・南町・本町〉・川原町・西田宮町・新町一―二丁目・高塚町・山之上西町・磯島南町
茨田郡に属し、北西部は淀川左岸の沖積低地からなり、その南東に洪積層の丘陵台地が段丘崖を形成しつつ広がる。天野川が村北端の交野郡禁野村との境を西に流れる。西は三矢村・枚方村・伊加賀村。西部を京街道が貫通し、周囲の岡新町村・三矢村・泥町村とともに枚方宿を形成した。室町時代には「岡」に関が置かれ、興福寺の大般若経転読料に宛てられた(「経覚私要鈔」長禄二年八月一八日条)。
岡村
おかむら
[現在地名]中山町岡
下市村の北、下市川河口右岸の丘陵地に位置し、北は日本海に臨む。汗入郡に属し、拝領高五六〇石余、本免四ツ六歩。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六二〇石余、竈数四六。藪役銀三匁七分を課されていた(藩史)。元和三年(一六一七)池田光政が因伯両国を領有した際、八橋・汗入両郡一万石を領有した池田利政(光政の叔父)の館があった。同館は現国道九号南側の御屋敷と称する地にあり、寛永九年(一六三二)まで利政およびその一族が居住した(汗入史綱)。現在は民家(橋井家)となっている。元禄一五年(一七〇二)下市村に加え、当村と上市村も伯耆街道の馬継を行うこととなった(在方御定)。
岡村
おかむら
[現在地名]香南町岡
由佐村の南、讃岐山脈から北へ張出した丘陵とそれに続く平地に立地。南北朝期には「岡要害」といわれた由佐氏配下の城が築かれており、観応の擾乱で足利尊氏方についた守護細川顕氏は、観応二年(一三五一)四月一五日に「安原、鳥屋、岡」の要害警固をいっそう強化するよう由佐弥二郎に命じている(「左兵衛尉某奉書写」由佐家文書)。のち岡屋形とよばれる細川氏の居城があった。
寛永国絵図に岡村とみえるが、高は井原郷に一括されている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高三四〇石余。
岡村
おかむら
[現在地名]松原市岡一―七丁目・新堂三丁目・同五丁目・柴垣一丁目
近世に松原村を構成した一村で、松原村のうち最も南にある。緩やかな南高北低の地形から、北よりみればやや高いので岡といわれた。村の北西に池があり、中堤で東・西に仕切られる。西が清堂池、東が宮の池。清堂は聖堂に音が通じ、王仁がこの地に聖堂を建てたという。文禄三年(一五九四)の検地帳(松永家文書)の表紙に「丹北郡松原郷内岡村」とあり、反別三一町五反余・分米四二一石余、家数六五(庄屋一・あるき一・道場一・夫役三一など)。
岡村
おかむら
[現在地名]上富田町岡
北は馬我野村・上三栖村(現田辺市)、南は岩田村、東は市ノ瀬村、西は下三栖村(現田辺市)。中央を富田川の支流岡川が南流し、集落は山麓の台地に散在。南部を熊野街道中辺路がほぼ北西から南東に貫通している。小名岡川は馬我野村との境に位置する。「続風土記」に「此地渓間にて土地高し、因りて岡の名あり」と記される。正中三年(一三二六)の熊野縁起(仁和寺蔵)の「道中王子次第」にある「八上大岡」は当地。
岡村
おかむら
[現在地名]新旭町饗庭
木津村の南の湖岸部にある。五十川村の住民が北部を開拓して成立したと伝える。応永二九年(一四二二)の木津庄引田帳(饗庭文書)に「岡弘法後家」とみえ、天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(同文書)にも岡の地名がみえる。同一一年八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)の饗庭庄の内に岡村とあり、高三〇二石余。寛永一一年(一六三四)膳所藩領となり、延宝七年(一六七九)河内西代藩領、享保一七年(一七三二)幕府領、天保四年(一八三三)山城淀藩領となる。
岡村
おかむら
[現在地名]栗東町岡
目川村の南、草津川の北岸平地に立地。西部で同川に金勝川が合流。東海道に沿う街村。当地の地山古墳は直径五六メートルの円墳、周濠をもつと推測されており、これを含めると直径六五メートルに達する。未調査のため内容は不明だが、昭和六一年(一九八六)周辺部の発掘調査で六世紀初頭の須恵器が出土し、その前後の築造と推測される。隣地に岡遺跡がある。
下戸山の小槻大社蔵の永徳二年(一三八二)の板札に、土豪青地氏の侍衆によって構成された「榊本之衆中」として、当村に居住していた宇野右門之佐親通の名がみえる。
岡村
おかむら
[現在地名]朝霞市岡・岡一―三丁目・本町二―三丁目・仲町一―二丁目・栄町一―五丁目・溝沼六―七丁目・根岸台一丁目
溝沼村の北東にあり、北を黒目川が蛇行しながら東へ流れる。村域は南北に長く、南・西は広沢原新田に接する。西部を川越街道が通る。南に広沢池があり、その傍らに七ッ釜とよばれる湧水池があった。古くは溝沼村・根岸村と一村であったと伝える。新座郡野方領に属した(風土記稿)。田園簿では田二三四石余・畑二三三石余、幕府領(二〇〇石)と旗本三枝領(二六八石余)の二給で、ほかに幕府領代官納の野銭永一貫文があった。
岡村
おかむら
[現在地名]岡崎市岡町
北境に矢作川支流乙川が流れ、その枝流の山綱川が分流する通谷に沿った低地と低い台地からなる。この通谷は、古くから交通路となり、慶長五年(一六〇〇)より東海道が南隣生田村に通じるまでの要地であった。家康御年譜(大樹寺文書)にも文禄元年(一五九二)・同二年の上洛の途次家康がここに止宿したことが記され、この地に駅亭があったとみられている。北は乙川を境界とした丸山村・小美村、東は藤川宿、西は生田村に接し、古くは作岡・造岡と称し現在字名となっている。
岡村
くずおかむら
[現在地名]岩出山町上山里 葛岡
上真山村の南、丘陵山間地にあり、東流する小松川沿いの低地に集落は点在。東は磯田村、西南は上野目村。同村を経て岩出山本郷に通じる里道が通る。「吾妻鏡」に散見する「葛岡郡」の遺称地とされる。文治五年(一一八九)八月二〇日、玉造郡に赴いた源頼朝は「多加波々城」を陥れたが、藤原泰衡はすでに逃亡、頼朝は葛岡郡を出て平泉へ向かった(同書)。同年、頼朝は奥州合戦の恩賞として畠山重忠に葛岡郡を与えた(同書九月二〇日条)。また同書にみえる「葛岡郡小林新熊野社」(安貞元年三月二七日条など)と「長岡郡小林新熊野社」(建暦元年四月二日条)は同一と考えられ、葛岡郡は「和名抄」にみえ、現古川市長岡が遺称地とされる長岡郡の異称ともいわれる。
岡村
おかむら
[現在地名]岡山市鹿田町一―二丁目・春日町・大学町・岡町
西川の流域にあり、東は内田村、西は東古松村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高三三七石余。「備陽記」によると田畠一九町五反余、家数六・人数三六。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高六二七石余、蔵入。田高三一一石余・畑高七五石余、家数二七、一一戸が上伊福村日蓮宗妙林寺の檀家で、残りは内田村同宗妙福寺檀家二、平井村同宗妙広寺檀家一、西大寺村真言宗普門院檀家一、城下磨屋町同宗薬師院寺中成就院檀家四・同寺中弥勒院檀家一、城下瓦町臨済宗蔭凉寺檀家一、磨屋町天台宗光珍寺檀家三・同観音坊寺中本住院檀家一、脇田村同宗安養寺常行院檀家一、磨屋町一向宗浄福寺檀家一。
岡村
おかむら
[現在地名]上田市大字岡
上田市の西部を東流する浦野川の中流左岸に位置する集落。東は小泉村、南は仁古田村、西は浦野村、北は室賀村に接する。兵庫・寺家・町等の小字に分れる。
中世に入って小泉庄に付属し、嘉暦四年(一三二九)諏訪上社頭役帳(守矢文書)に「小泉庄内前田・岡村泉小二郎知行分」とある。泉小二郎は「吾妻鏡」所載の泉親衡(平)の乱の発頭人であり、乱後、行方をくらました泉小次郎の後裔と考えられる人で、その末流が乱後も知行していたことになる。
岡村
おかむら
[現在地名]中山町岡
小塩村の南に位置し、白鷹丘陵の東縁を南北に走る街道(岡街道)に沿う。元和八年(一六二二)山形藩領となり、正保元年(一六四四)からは幕府領。貞享二年(一六八五)山形藩領に復し、翌三年陸奥福島藩領、元禄一三年(一七〇〇)山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、文政六年(一八二三)陸奥白河藩領となるが、慶応二年(一八六六)藩主阿部正静の転封により陸奥棚倉藩領となる。
岡村
おかむら
[現在地名]八代町岡
高家村・南八代村の南に位置し、村内をほぼ西流する浅川の氾濫でしばしば被害があった。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「岡 本光寺」とみえる。本光寺は西隣米倉村の寺。慶長古高帳に村名がみえ、高二六九石余、幕府領。ほかに大明神領一石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)によると旗本堀領があり、元禄郷帳でも同じ。
岡村
おかむら
[現在地名]上郡町八保
名村・別名村の西、安室川中流域北岸の八保平地と山麓台地に立地する。江戸時代の領主の変遷は宝永三年(一七〇六)まで下栗原村に同じ。同年に二分され、一部の変遷は下栗原村に、残部は井上村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高一四三石余・畠高一一五石余。宝永三年の名村組指出帳(花岳寺文書)によれば、赤穂藩領分(小部)の高八八石余、家数二一・人数一一八、馬一・牛一〇。農間に男は塩木薪刈、女は雑菜取に従事。梵天宮(現八保神社、当村ほか七ヵ村の氏神)・妙見宮・荒神四・地蔵堂・薬師堂・阿弥陀堂などがある。
岡村
おかむら
[現在地名]加賀市大聖寺岡町
敷地村の西にあり、昭和八年(一九三三)大聖寺川放水路(新川)が開削されるまでは大聖寺町と地続きであった。京都北野社領福田庄のうち。天文九年(一五四〇)分の北野社領山田・菅波算用状(天文九年記)に「余所ヨリ成分」として「岡地蔵坊」がみえる。同二四年七月二三日に江沼郡一揆を撃破した越前朝倉教景は、翌二四日には「敷地山」に本陣を構え、八月一三日敷地口などで加州四郡一揆の総反撃を退けた(朝倉始末記)。
岡村
おかむら
[現在地名]生野区勝山北二―四丁目・勝山南三丁目など
東成郡に属し、平野川の西岸、木野村の南に位置する。南部に岡山とよばれる小丘があるほかは、おおむね平坦。この小丘はもとは猪飼岡とよばれ、これが村名の由来になったともいう。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には岡村とみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では高二三〇石余、元和元年(一六一五)から同五年まで大坂藩領。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳、元禄郷帳ともに幕府領。文化九年(一八一二)より相模小田原藩領。
岡村
おかむら
[現在地名]津久見市岡町
迫口村の東、青江川下流左岸に位置し、南は同川を挟んで道籠村、北は平岩村・道尾村。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ、高二三石余(田方八石余・畑方一五石余)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳でも同高で、本高二〇石余・出来高三石余。
岡村
おかむら
[現在地名]大河内町大河
寺前村の東、市川の流域に位置する。慶長八年(一六〇三)九月一一日の池田輝政家臣地方知行状(鳥取県立博物館蔵)に岡村とみえ、伊藤八右衛門は当村の一一八石など合せて二五〇石を宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。また元和四年(一六一八)に宛行われた河合政甫の知行地のうちにも当村が含まれている(「河合又五郎系譜」三河武士のやかた家康館蔵)。領主の変遷は貞享四年(一六八七)までは寺前村と同じ、同年以後は鍛冶屋村と同じ。正保郷帳では田方二一五石余・畑方三八石余、「柴山有」と注記される。
岡村
おかむら
[現在地名]勝央町岡
勝間田村の東の丘、出雲往来筋に立地。正保郷帳に村名がみえ、田四一〇石・畑一一三石余。承応二年(一六五三)一一戸が移転し、屋敷地は新田になった(美作一国鏡)。津山藩政に従ったもので、平坦地を水田に変えることと人家を水害から守るためとされる。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一二五石余・開高二三石余、村位は下。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数三九(うち小中に一二)。津山藩主森氏断絶後の領主の変遷は初め勝間田村と同じであるが、元文四年(一七三九)から大坂定番丹羽領、寛保二年(一七四二)から幕府領、延享四年(一七四七)から但馬出石藩領、天保七年(一八三六)から幕府領、同九年から津山藩領(美作国郷村支配記)。
岡村
おかむら
[現在地名]阿南市上中町
中原村の西に位置し、南は岡川を境に西方村。村内を南北に土佐街道が通り、西方村との間には岡川の渡しがあった(安政二年「長川及岡川絵図」徳島大学附属図書館蔵)。また当村の一里松付近には伝馬所が置かれ、数ヵ村が交替で常勤した(阿南市史)。当地には中世岡城が築かれ、元亀年間(一五七〇―七三)には新田遠江守が居城した(三好家成立記)。慶長二年(一五九七)の分限帳に益田八右衛門知行分として那西郡岡村二七〇石余とみえる。寛永七年(一六三〇)には渡辺古は岡村一〇〇石余(人数一一)など合せて四〇〇石を知行している(「知行割符帳」蜂須賀家文書)。
岡村
おかむら
[現在地名]平田町岡
幡長村の西に位置し、北を大榑川が流れる。年未詳六月六日の柴田勝家書状(池田文書)に「岡村」とみえ、下大榑(現安八郡輪之内町)とともに両郷名主百姓に対し、年貢・諸成物・陣夫役を田中真吉へ納入すべきことを命じている。本能寺の変後尾張国を領した織田信雄は、天正一一年(一五八三)九月一日「おか村」を含めて一四ヵ所で三千貫余の地を吉村氏吉に与えている(「織田信雄宛行状」吉村文書)。
岡村
おかむら
[現在地名]芦北町豊岡
湯浦川と米田川に挟まれた丘陵の西裾にあり、米田川を境に寺河内村と野角村に接する。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳に「湯浦内 岡村」とあり、田畠高四六二石二斗余、屋敷数二三ヵ所、家数六八軒、男女一六六、うち女六八、頭百姓六・脇百姓一七・名子一八・座頭一がいた。同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。同一〇年の数字は他の小村も含めたものと考えられ、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女八二人のうち「医師一人分」の三人を除いた七九人が「御郡筒御百生共」で、うち女三二、一五歳より六〇歳までの男二一人のうちに三人の郡筒が含まれ、竈数一一、馬三とある。
岡村
おかむら
[現在地名]黒田庄町岡
喜多村の南、加古川の支流門柳川南岸に位置する。年未詳の一月五日、羽柴秀吉は村上源太の在所黒田庄岡村の百姓の所務(年貢)無沙汰につき生熊氏を派遣して督促した(「羽柴秀吉書状」村上文書)。源太は応永二六年(一四一九)黒田庄代官職を請負った村上弾正忠盛弘の子孫とみられるが(正月二五日「村上盛弘請文」九条家文書)、太閤検地により領主ではなくなり、岡村の百姓を預かる立場にあったものであろう。慶長国絵図に村名が記載される。慶長検地では高三五九石余(延宝五年「検地帳」岡区有文書)。正保郷帳では田方五一六石余・畑方四八石余、幕府領。延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)、同三年三卿の一橋領となり幕末に至る(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書、旧高旧領取調帳など)。
岡村
おかむら
[現在地名]藤代町岡
小貝川東南岸に所在。北東は和田村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」には下総佐倉藩領として村名がみえ、寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば下総高岡藩領で村高五六一・七六二石。同六年の吉田村明細帳(平本家文書)の岡堰組合村々高では村高五〇四・三九石のほかに延命寺除地〇・七二石。嘉永三年(一八五〇)の岡堰三拾弐ケ村組合田畑反別控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によると田四三町余、畑三二町余。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には高岡藩領で村高五六一石余。
岡村
おかむら
[現在地名]桜村東岡
台地上に位置し、北東は金田村。古代は「和名抄」記載の菅田郷に属したとされ、金田台の河内郡衙跡より西方三〇〇メートルの東岡の丘陵地は九重廃寺(河内廃寺)跡と推定されており、のち金田とともに田中庄強清水郷と称した。江戸時代は旗本領で正保―元禄年間(一六四四―一七〇四)に金田村より分れて一村をなし、岡村さらに東岡村と改めたといい、村は中向・台・新井の三坪に分れていた(新編常陸国誌)。
岡村
おかむら
[現在地名]小矢部市岡
田川村の東、小矢部川右岸の微高地に立地。北陸街道が黒石川に沿って通る。南部で戸出村(現高岡市)へ至る旧北陸街道(巡見使道)が分岐する。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数八、道明村組に属する。正保郷帳では高七九二石余、田方三九町六反余・畑方一三町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六七一石・免四ツ一歩、小物成は野役二〇目・鮭役三〇六匁・鮎川役三匁、鱒役五匁(うち四匁出来)・猟船櫂役一〇匁(三箇国高物成帳)。
岡村
おかむら
[現在地名]七尾市岡町
大田村の東、殿村の北に位置する。現鵜浦町福勝寺所蔵の慶長八年(一六〇三)の親鸞絵像裏書に大呑崎山岡村とみえる。寛永一二年(一六三五)の鹿島郡喜兵衛組役家書上(藤井文書)によると役家一三。正保郷帳では高一六〇石余、田方一町三反・畑方九町三反余。承応二年(一六五三)の役棟一三(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一七〇石、免四ツ五歩、小物成は山役一二〇目・苦竹役五匁、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。
岡村
おかむら
[現在地名]大島村岡
西流する保倉川右岸に位置し、南東は下達村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では当村と思われる地点に「秋山分此外三方分芋河村 下」とあり、本納六八石八斗三合・縄高一二七石九斗一合、家一二軒・四四人。正保国絵図では高七五石余。天和三年郷帳では高七七石七斗余、うち山高二石二斗六升九合・漆高三石三斗二升・青苧高一石七斗四合。また新田高一一石二斗余。反別田一二町八反余・畑屋敷三六町三反余・山林三町四反余。安永九年(一七八〇)の新田検地では高一三六石九斗余であったが、荒地同然の地にまで竿入をしたので年貢上納が困難だとして、寛政元年(一七八九)再検地願(村松千秋氏蔵)を出している。
岡村
おかむら
[現在地名]和田山町岡
法道寺村の南、円山川支流の石和川の上流域にあり、岡・芳賀野・長尾・別所の四地区に分れている。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高三七一石余。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となり、以後は宮田村と同じ変遷であったと推定される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高三七一石余。
岡村
おかむら
[現在地名]白山町岡
大村の西、大村川の形成した低い段丘上に立地。南に大村川を隔てて南出村、東西に初瀬表街道が通じて西方中ノ村に接する。中世は小倭郷に属したと思われるが、明応三年(一四九四)の小倭百姓衆起請文(成願寺文書)には村名がみえない。大村に属した村と推測される。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳にも村名はない。慶長一七年(一六一二)の大山法度(成願寺文書)には「岡郷」とみえる。
岡村
おかむら
[現在地名]大分市丹生
一木村の南西にある丹生川左岸の村で、条里の地割が残る。集落は丹生台地の小浸食谷にある。弘治二年(一五五六)と推定される六月二五日付斎藤鎮実書状(岡村憲次文書)に岡村又太郎がみえ、七月二日には堀市左衛門尉領地を預けられている(「斎藤鎮実知行預ケ状」同文書)。某所坪付(同文書)にみえる「かう木かう」「むなそり」は当村のうちか。慶長二年(一五九七)の丹生庄検地帳写(渡辺家文書)によると、岡村の高二二四石余、うち田高二〇一石余・畑高二三石余、村位は下。
岡村
おかむら
[現在地名]勝山町岡
旭川北岸の河岸段丘の平坦地と竹原山塊が北から旭川に舌状に臨む台地上に位置。川に沿って大山往来の枝道が通り、高田北部の要衝をなす。東は神庭村。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村書(肥塚家文書)に「おかの衛門兄弟」とあるのは当地のことか。正保郷帳に村名がみえ、田高一七石余・畑高一八石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高七石余・開高九石余。「作陽誌」では家数九・人数五二。領主の変遷は神庭村と同じ。
岡村
おかむら
[現在地名]大東町岡村
東阿用村の西、赤川の支流阿用川中流域左岸に位置する。「雲陽大数録」に村名がみえ、高三〇〇石。「郡村誌」によると戸数六四(うち社二・寺一)・人数二九〇、牛六・馬四、民業は農業五〇戸・工業六戸・商業四戸、物産は生人参一二〇貫目・櫨実三〇〇貫目・楮一五〇貫目・扱苧三〇貫目・荒苧一二〇貫目・薪一万二千貫目・木綿三〇〇反など。八幡宮は「雲陽誌」に「此所を妙伝山といふ、(中略)左右に伊勢宮若宮を勧請す、阿用郷七ケ村岡村西阿用東阿用下阿用川井箱淵大ケ谷大社なり、祭礼八月廿五日上馬三疋花馬三疋流鏑馬二疋湯立神楽獅々舞御幸品々の神事なり」とみえる。
岡村
おかむら
[現在地名]旭町八幡
矢作川の支流介木川に沿い、東は日下部村、南は槙本村・下伊熊村、西は伯母沢村、北は高蔵村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。現県道小渡―明川―足助線が通じる。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。同一五年成瀬家断絶以後領主の交代が激しかったが、天和元年(一六八一)足助村(現足助町)に陣屋を置く旗本本多忠周の知行地となり明治に至る。
岡村
おかむら
[現在地名]五條市岡町・岡口一―二丁目
五条村北方に隣接、大岡とも書く。康平元年(一〇五八)一〇月二二日の大和国竹林寺解案に「宇智郡大岡条二里十二坪三段」と記し、治承三年(一一七九)八月の大和国豊井荘年貢請取状(東大寺文書)に「納 大和国豊井御庄大岡郷分御年貢云々」とあり、仁安三年(一一六八)七月の豊井庄新芝丁注進状(東大寺文書)に「豊井御庄内二見坂合部」とあることから豊井庄は宇智郡に属したことがわかる。豊井庄内の大岡は宇智郡の大岡であろう(添上郡にも大岡中郷あり)(→豊井庄)。
岡村
おかむら
[現在地名]大田原市岡
蛇尾川と熊川の合流点北方、集落は湧泉近くにある。北は戸之内村、西は今泉村。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉より安堵された所領のうちの「ふな山の内」に含まれていたと思われる(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。改革組合村では独立して記され、四三石余、家数四。
岡村
おかむら
[現在地名]彦根市岡町
後三条村の南東、平田山南麓に位置し、地続きの城下に岡町がある。文明一五年(一四八三)四月二五日の多賀社衆議事書(多賀大社文書)に、多賀社中としてみえる岡氏(五名)は当地を本拠とする国人と推定される。永正一六年(一五一九)二月七日、伊勢神宮御師宮後せい三郎・同善三郎は「おかの里一ゑん」などの道者株を売渡している(「道者株売券」輯古帖)。慶長高辻帳に村名がみえ高一九五石余、うち小物成四斗余。
岡村
おかむら
[現在地名]小山市大本 岡
東は小宅村、南は大内川村。寛文四年(一六六四)の下総古河藩領知目録に村名がみえる。天和三年(一六八三)一部が旗本依田領となり、その後貞享二年(一六八五)もしくは元禄元年(一六八八)に旗本畠山領、同六年旗本上野領、同九―一二年の間に旗本竹本領が加わり、計四給となる。上野知行分は享保一一年(一七二六)旗本渋谷領となり、旧高旧領取調帳では旗本依田・竹本・渋谷・足利の四給。
岡村
おかむら
[現在地名]鳳来町富保
本長篠から北に続く南北の谷を三輪川の支流大井川が流れる。この大井川左岸の山すそにあり、北は大草村に接する。浜松街道に続く鳳来寺道が村域内を通っていたが、昭和四二年(一九六七)田口鉄道廃止に伴い県道に編入された。大草村に近い道路端に湧く清水は、鳳来寺代官の飲料水に用いられ、万寿坂を越して往復一〇キロの道を、毎朝一樽ずつ運んだという。
岡村
おかむら
[現在地名]熊山町岡
佐古村の北にあり、小野田川水源地一帯に集落がある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の小野庄に村名がみえる。「備陽記」によれば山寄り集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程五里二三町。田畠三一町余、家数七五・人数三九八、池八。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高七一七石余、蔵入と家臣七名の給地。田高三四三石余・二二町一反余、畑高八七石余・八町二反余、物成合計二五二石余。
岡村
おかむら
[現在地名]守山市岡町
立入村の西、野洲川左岸に位置。元和六年代官算用状(芦浦観音寺文書)に村名がみえ、年貢高九四石余。元和七年成箇帳(同文書)によれば高二一六石余(うち永荒一〇石余・いもち日損一九石余)で、年貢高八六石余のうち八石余が大豆納。慶安高辻帳によれば同高で、うち田一八九石・畑二三石余・永荒三石余。元禄郷帳では三上藩領。天保年間(一八三〇―四四)には一五〇石が吉身村からの入作地であったという。
岡村
おかむら
[現在地名]泗水町田島
田島村の北西、花房台地の南西部に位置する。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によると、弘生組に属し、戸数四・家数二六、人数三三(うち庄屋一・百姓三・名子四)、牛馬八。その後竹迫手永に属し、「国志草稿」に「岡村 百九十七石ヨ」とあるが、「国誌」では猪目村の小村として記され、近世中期頃に猪目村に寄せ村になったとみられる。天保期(一八三〇―四四)以降の村柄を示す明治三年(一八七〇)の竹迫手永手鑑では独立村になっており、竈数二七・人数一五〇、馬三八、高一九七石余、田六町二反七畝余・畑九町六畝余、ほかに諸開四町七反九畝余があった。
岡村
おかむら
[現在地名]和泉市岡町
北田中・小野田両村の東、九鬼村の北に位置する。横山谷の一村。文禄三年(一五九四)の検地帳(池辺家文書)は横山谷で一括されていて村高は不明だが、当村居住者の名請人は一五名(屋敷数三)。寛永一五年(一六三八)の年貢高五五石余、うち二・五石は大豆納(同文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高九四石余、幕府領。
岡村
おかむら
[現在地名]大野町後田 岡
中道村の北東、東流する茜川南岸にある。北東は船木村(現千歳村)。正保郷帳に村名がみえ、田高四二石余・畑高三六石余、井田郷に属し、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高一四一石余。安永七年(一七七八)には片島組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。
岡村
おかむら
[現在地名]六日町岡
山口村の西、南は桂山、西は上薬師堂村、北は宇田沢川を挟んで上出浦村。正保国絵図に村名がみえ、高九六石余。天和三年郷帳では高一四七石六斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田七町八反余・畑七町六反余、家数二二、男五〇・女三八、馬七。
岡村
おかむら
[現在地名]揖斐川町岡
新宮村の南東に位置する。文禄三年(一五九四)の窪田市三郎山年貢請文(中西文書)に「おか村」とみえ、山年貢が五斗に改められている。慶長郷帳に村名がみえ、高三〇七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。正保郷帳では尾張藩領で、田二七八石余・畑二八石余、ほか小物成一斗が課せられていた。
岡村
おかむら
[現在地名]谷田部町西岡
大橋村の南、蓮沼川東岸に位置。江戸時代には長田・松平・伊東の旗本三氏の相給地となり廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によると幕末には西岡村となっており、明治元年(一八六八)には長田綱之允知行地四六・七〇四〇四石、松平太郎知行地四六・〇四七九三石、伊東貞四郎知行地四六・〇四八〇三石に分れていた。
岡村
おかむら
[現在地名]加古川市志方町岡
柏尾村の北に位置する。領主の変遷は細工所村に同じ。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方一八二石余・畑方二二石余。延宝七年(一六七九)の松平大和守による検地帳(岡町内会文書)によると田畑屋敷合計一五町一反余、高持四〇、うち一〇石以上四、過半数は三石以下。
岡村
おかむら
[現在地名]院内町岡
恵良川とその支流余川の最上流部に挟まれた山間部に位置し、東は栗山村、北は大坪村。小倉藩元和人畜改帳では高五六石余、家数三・人数一二(うち百姓二・名子一)、牛一。百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数二六(「人畜帳」庄家文書)。
岡村
おかむら
[現在地名]倉吉市岡
福積村の南西に位置し、志村川に沿う。拝領高は一四九石余、本免四ツ七分。栗池の池田氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高一四〇石余、竈数一二。
岡村
くずおかむら
[現在地名]武生市葛岡町
村国山の東麓にある。南隣の大屋村から北隣の横市にかけての地割に条里制の遺構が認められる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西郡中に村名と高三二一・六二石が記され、正保郷帳によると田方三一五石余・畠方六石余。
岡村
おかむら
[現在地名]長崎市岡町・橋口町・松山町
中野村の西に位置し、浦上川が流れる。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、正保国絵図に岡村とみえ、高五五石余。元禄国絵図にも村名がみえ、「長崎実録大成」では長崎村小名九ヵ郷のうちに岡村郷がみえる。
岡村
おかむら
[現在地名]玉城町岡村
別所村の南にある。条里制の遺構がみられる。「神鳳鈔」に「内宮岡依御薗二斗、十二月」とみえる。「五鈴遺響」は、それを当地に比定している。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、村高五二二石余のうち田方が四八八石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報