(鬼頭清明)
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伊賀皇子ともいう。後世,弘文天皇と呼ばれる。天智天皇の皇子,母は伊賀の豪族の娘で伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)。《懐風藻》に載せる略伝には,〈博学多通,文武の材幹あり〉とみえ,とくに漢詩文に通じ,《懐風藻》に詩2編がある。天智ははじめ同母弟の大海人皇子(天武天皇)を信頼し,これを後継者として皇太弟と称したが,大友の成長するにしたがってしだいに大友を重んじ,671年(天智10)1月に皇太子に準ずる地位である太政大臣に任じた。大海人は天智の意を察して同年9月近江朝廷を去って吉野山に入った。天智は同年12月没し,大友はあとを受けて近江朝廷を主宰した。翌672年6月大海人は皇位を望んで挙兵,壬申の乱をおこし,大友は敗れて,同年7月近江の山前で自殺した。《日本書紀》は大友の即位をみとめないが,《扶桑略記》《水鏡》などは即位したとし,《大日本史》はそれらの書によって即位を認め,明治政府は1870年に天皇の列に加え,弘文の諡号(しごう)を定めた。陵墓は大津市御陵町にある。
執筆者:直木 孝次郎
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648~672.7.23
伊賀皇子とも。天智天皇の皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)。天智天皇晩年の671年(天智10)太政大臣に任じられた。この年,病の重くなった天皇は,後事を皇太弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)に託そうとしたが,大海人はこれを辞退した。天皇の死後,大友皇子は近江朝の中心として,吉野に移った大海人を警戒し対立したが,翌年の壬申(じんしん)の乱で大海人の軍に敗れ,山前(やまさき)で自殺,その首は不破(ふわ)(現,岐阜県不破郡)の大海人皇子の軍営に運ばれた。大友皇子が即位したかどうかは明らかでないが,「大日本史」は皇子の即位を認めて大友天皇本紀をたて,1870年(明治3)明治天皇から弘文天皇と追諡された。
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…672年(天武1,壬申の年)に生じた内乱。大友皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)とで皇位継承をめぐって争われた。大友皇子の父,大海人皇子の兄であった天智天皇は,その末年に至って,その子大友皇子を後継者とする方針にかたむき671年(天智10)には太政大臣に任命して政権の中心にすえた。…
…このとき天武は皇太子の地位につき,皇太弟と呼ばれた。しかしその後,天智は子の大友皇子を後継者にしようとし,671年に太政大臣に任じた。天武はその天智の意中を察して宮廷を退き出家するとして,吉野山中に隠れた。…
…江戸後期成立。上巻は天智天皇の第1皇子大友皇子(弘文天皇)の事跡と壬申の乱を考察し,下巻は大友皇子が自殺した地を滋賀郡長等山の山前として,その地にある園城寺(三井寺)は大友皇子がその子与多王に与えた遺詔をもとに創建されたものと考証する。付録は〈壬申紀証註〉〈年号の論〉〈持統天皇草壁皇子尊珂瑠皇子尊の御うへの事〉〈天智天皇立太子及大兄名称考〉など。…
※「大友皇子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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