日本歴史地名大系 「三箇山庄」の解説 三箇山庄みつこやまのしよう 三重県:鈴鹿郡関町坂下村三箇山庄「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に記す伊勢神宮参向の公卿勅使駅家雑事を「不勤仕庄」に、「三ケ山常陸三郎」がみえる。この常陸三郎は伊達常陸入道念西(朝宗)と推定され、娘は源頼朝の寵を受けた大進局。同書建久二年(一一九一)正月二三日条によれば、局は北条政子の嫉妬によって在京を強いられたために、「就近国便宜、被宛伊勢歟」とされ、同三年一二月一〇日条では「先日拝領伊勢国三ケ山」(吉川本「吾妻鏡」では三箇山)とあり、大進局に宛行われていた。その後、頼朝の子高野法印貞暁が領し、貞暁が寛喜三年(一二三一)二月に没すると、当庄を含む遺跡は内大臣西園寺実氏の子息に譲与された(同書同年六月二二日条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by