日本歴史地名大系 「鈴鹿郡」の解説 鈴鹿郡すずかぐん 面積:八〇・五九平方キロ関(せき)町三重県北西部に位置する。旧郡域のうち中央部は亀山市、北東部は鈴鹿市となったため、現鈴鹿郡は鈴鹿川上流の山岳地帯が大部分を占める。北は鈴鹿山脈を境に滋賀県甲賀郡土山(つちやま)町・甲賀町、西は阿山郡伊賀(いが)町、南は阿山郡大山田(おおやまだ)村・安芸(あげ)郡芸濃(げいのう)町、東は亀山市に接する。郡名は「延喜式」諸国駅伝馬の項に「ススカ」、「和名抄」に「須々加」と訓ずる。文献上は「日本書紀」天武天皇元年六月二五日条に「高田首新家等、鈴鹿郡に参遇へり」とある。〔原始〕縄文時代の発見遺物は乏しい。弥生時代の遺物は関町の古厩(ふるまや)・加太(かぶと)付近から土器片が採集される。多くは歴史時代に続く複合遺跡である。古墳も鈴鹿川流域に多いが、上流の当地域には数少ない。〔古代〕律令時代、この地域は行政・交通の面で重要性をもつ。伊勢国府は鈴鹿川中流右岸の国府(こう)町(現鈴鹿市)に比定され、三関の一つ鈴鹿関も現関町付近に位置したと考えられる。壬申の乱の際の天武方の進路にもあたり(日本書紀)、「延喜式」東海道の鈴鹿駅(現古厩付近)も置かれた。平安時代に入って、従来の加太越に代わって、仁和二年(八八六)近江を経る阿須波(あすは)道が開かれ、その後の鈴鹿峠越の道筋となった(三代実録)。しかし従来の道は斎宮群行の通路でもあり、交通上の重要性に変りはない。「和名抄」東急本鈴鹿郡の郷は英多(あがた)・高宮(たかみや)・長世(ながせ)・鈴鹿・枚田(ひらた)・神戸(かんべ)・駅家(うまや)の七郷で、うち現鈴鹿郡に比定されるのは鈴鹿郷と駅家郷である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報