坂下村(読み)ばんげむら

日本歴史地名大系 「坂下村」の解説

坂下村
ばんげむら

[現在地名]会津坂下町上町かみちよう小原こばら桜木町さくらぎちよう新栄町しんえいちよう新町しんちよう新富町しんとみちよう諏訪町すわまち茶屋町ちややまち仲町なかまち橋本はしもと本町ほんちよう緑町みどりちよう柳町やなぎまち鉄砲町てつぽうちよう

東から北にかけて旧みや(鶴沼川)が迂回北流し、越後街道が東西に走る。東は古坂下こばんげ村、西は塔寺とうでら村。沼田街道・下野裏街道の分岐点でもあり、交通の要衝として栄えた。かつて高寺たかてらの坂の下にあったための村名という(新編会津風土記)。またアイヌ語のバッケに由来するとの説もある。文禄四年(一五九五)一〇月二七日の火災後坂下村とくり村を合せて坂下村としたという(同書)。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「番下の村大瓶一」「栗村矢鏑流馬一番」とみえる。「塔寺長帳」永正一五年(一五一八)条によれば、七月一四日に「大水はんけの薬師堂之はしらはん分まてみつつき申候」とあり、洪水の被害を受けている。同年朝立あさだち村の入会山に関する相論があり、これに対して蘆名氏が裁決を出し、翌年「すき、ふなくほ、ひる川、くり村の物共」が起請している。元亀元年(一五七〇)栗村に住む栗村下総某が霊夢により栗村堰を開こうとしたが、反対する金沢かなざわ村・矢目やのめ村に対して、永久用水証文を出している(同年三月日「栗村堰用水契状案」新編会津風土記)。文禄三年の蒲生領高目録に坂下とあり、高一千五四〇石余で「此内四百八十二石三斗三升川ヲシ当荒」と注記される。「塔寺八幡宮長帳」によれば、同四年一〇月二七日に「坂下皆火栗村北新町ひけ町一つゝきに此年罷成」とあり、坂下村が火事になったため、栗村などを合せて新しい坂下村が形成されている。

慶長一六年(一六一一)の会津大地震により、従来勝負沢しようぶさわ峠を越えていた越後街道が通行不能となり、新たに鐘撞堂かねつきどう峠越に改修された。


坂下村
さかしたむら

[現在地名]坂下町坂下

東を木曾川が南流し、対岸は信濃国木曾である。北より南へ川上かわうえ川が流れて木曾川に流入し、南・西・北の三方を山に囲まれる。北西に上野うえの村、川上川上流は川上村(現川上村)。木曾への玄関口といわれ、飛騨からの物資は渡船により木曾川を渡り、木曾谷から伊那地方へ輸送された。関ヶ原戦後、遠山友政(苗木藩)領となり、以後幕末まで同藩領。慶長郷帳に村名がみえ、高九七二石余とある。正保郷帳に田方七〇三石余・畑方二六九石余とあり、ほかに新開田畑高八七石余がある。一七世紀中葉と思われる中山直守・内藤正吉連署書状(村瀬俊二氏所蔵文書)に「かしもと申所より坂下迄、路次筋一段悪由申来候」とある。

坂下村御用紙漉上請状(越原文書)によれば、安永四年(一七七五)には坂下村紙屋が苗木藩の御用紙を請負い、越原おつぱら(現加茂郡東白川村)有本ありもと(現同郡白川町)で漉かせている。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]所沢市坂之下さかのした

しろ村の北東にあり、東は柳瀬やなせ川を隔てて新座にいくら大和田おおわだ(現新座市)、南も同川を隔てて多摩郡清戸下きよとした宿(現東京都清瀬市)。村名は城村西方からは坂を下った低地にあることに由来するという。東方の北から南へ下る坂は鎌倉坂とよばれ、古鎌倉街道にある坂という。入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。田園簿では田六二石余・畑四〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本羽田領だが、「風土記稿」では明暦元年(一六五五)に幕府領と羽田領に二分されたとあり、検地はともに寛文四年(一六六四)の実施。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]南関町上坂下かみさかした下坂下しもさかした

内田うちだ川の最上流域に位置し、東は久井原ひさいばる村・内田村(現菊水町)、北は坂上さかのうえ村、西は東今ひがしいま村・柿原かきばる村、南は石尾いしのお(現玉名市)と接する。八里の里数木があった。「国誌」所収の文禄―慶長(一五九二―一六一五)頃と推定される加藤直正書状に「坂下村四郎兵衛」がみえる。近世は坂下手永に属する。「国誌」には坂ノ下村と記され「高二千三百四十二石余、上坂下下坂下アリ、大久保日焼村鬼王丸村胡麻茶村大場村等小村アリ」とある。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]松之山町坂下・東山ひがしやま松代まつだい町東山

越道こえどう川左岸に位置し、南は橋詰はしづめ村、北は観音寺かんのんじ村、川を挟み東は藤内名とないみよう村。東方赤倉あかくら村からひがし川を越え東川支流沿いに南東へ上ったところにはら、さらにその東に青苧平おそんだいら(現松代町)の二つの出作地がある。正保国絵図に高一四石余。天和三年郷帳では高一五石二斗余、反別田八反余・畑屋敷一町三反余・山林五反余・青苧畑八反余で、漆木一六本、家数五。安永九年(一七八〇)新田検地では高一八石余。明治五年(一八七二)の戸数三七。三柱みはしら神社は昭和三年(一九二八)上川手かみかわて地区の猪野名いのみようと橋詰の松苧まつお神社二社、藤内名と坂下の諏訪神社二社、観音寺と古戸ふるとの十二神社二社の六村六社・三神体を合祀したもの。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]大津市葛川坂下町かつらがわさかしたちよう

安曇あど川上流の葛川谷の最南部に位置し、集落は若狭街道沿いにある。南の花折はなおれ峠を下ると途中とちゆう村で、峠の手前に出郷のだいら(仲の平)の集落がある。文亀三年(一五〇三)六月一〇日の掃地納帳(葛川明王院史料)に「坂下」とみえ、元亀二年(一五七一)には明王みようおう院本堂の舞台普請役として人夫一九人が出役している(四月二七日「舞台普請日記」同書)


坂下村
さかげむら

[現在地名]大山田村坂下

中馬野なかばの村の南、東は伊勢国、南は伊賀郡たき(現名賀郡青山町)に接する。天正七年(一五七九)織田信雄の軍が伊賀に攻め入った鬼瘤おにこぶ越の峠は南東部の勢伊の国境にあり、伊勢垣内かいと(現一志郡白山町)よりこの峠を越え、当村と滝村の境界を北西に進み、村の中央部で広瀬ひろせ村と滝村に通ずる道に合する。織田方の将柘植三郎左衛門尉が戦死した地はこの道筋の七曲ななまがり辺りと伝える。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]関町坂下さかした

沓掛くつかけ村の北にある旧東海道沿いの街村。近江国から鈴鹿峠を越えて伊勢に入った最初の地で、地名も鈴鹿峠の坂の下の意である。「賢俊日記」に貞和二年(一三四六)一〇月伊勢参宮に出発した賢俊が「二十六日庚子、昼坂ノ下、夜垂水」とみえ、以後当地は京都から伊勢への旅人の峠を越えた休息地として、諸書に記される(→坂下宿

文禄検地帳を転記したとみられる伊勢国中御検地高帳に坂下村があり、慶長一五年―元和元年(一六一〇―一五)、寛永一三年―慶安元年(一六三六―四八)の間は亀山藩領、それ以外は幕府領であった。


坂下村
さかのしもむら

[現在地名]山中町坂下町

大聖寺だいしようじ川の上流、片谷へぎだに村の東にあり、集落は右岸に形成される。北方の坂ノ下峠は当村より上流の村々にとって、大正期に大聖寺川沿いの道ができるまでは、四十九院しじゆうくいん村を経て動橋いぶりはし(現加賀市)方面に通ずる重要な峠であった。正保郷帳によると高一一九石余、田方二町五反余・畑方六町三反余、物成高五四石余。「江沼志稿」では高一二七石余、小物成は山役で、家数一七・人数一一一、馬一一。鎮守は砥倉とぐら明神社(現日置神社)とみえ、鎮守社境内および山中の石を持出すと大風が吹いて五穀草木を荒らすので、七月から収穫までは他村の商工人にいたるまで山中往来を禁じたとある。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]敦賀市坂ノ下・岡山おかやま

道口みちのくち村の東北、明神みようじん山の北西山麓に位置する。村の中央を道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田方一九七石余・畠方四石余。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書に庄屋五右衛門(持高八石余)、牛馬銀九匁余、新山手銀六四匁余、入草銀二〇匁余、雉札銀一匁、夫米三俵二斗余、馬足一七疋、牝馬一五、家数三三(うち高持一七・無高一五・観音堂一)、人数一六一とみえる。


坂下村
さこぎむら

[現在地名]八尾町東坂下ひがしさかした

岩屋いわや村の東、久婦須くぶす川右岸の山腹にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは北谷きただに村と合せて記される。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高二二石余。寛政二年(一七九〇)の高も変わらず、定免二ツ四歩六厘、定小物成銀は三匁余(高物成品々手鏡)。幕末には北谷村の枝村で、高は変わらず免二ツ五歩、銀納高八石余で免一ツ五歩、小物成銀は山役三匁余とある(古高免小物成銀等書上)


坂下村
さこれむら

[現在地名]小坂町坂下

飛騨川東岸にあり、北は小坂町おさかまち村、南は見上けんじよう谷。飛騨川と並走する飛騨街道沿いに北から蕨野わらびの・坂下・石飛いしとびの集落がある。元禄八年(一六九五)の検地帳(小坂町教育委員会蔵)に村名がみえ高二七石余、田一町五反余・畑三町余。「飛騨国中案内」によれば免三割八分一厘、家数一七、うち百姓一五・門屋二。松のある見上山は御留山、わらひの洞山は普請山・家木山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)


坂下村
さかしたむら

[現在地名]今立町南坂下みなみさかした

月尾つきお谷の最奥部にあり、板垣いたがき坂を東に越えると池田いけだ郷板垣村(現池田町)に通ずる。西北は別印べついん村。水間みずま谷の坂下村と区別するため明治一四年(一八八一)の「郡区町村一覧」より南坂下村と改称。慶長三年(一五九八)の坂下村検地帳(笠島家文書)によると村高は八一・〇四石で、正保郷帳では、田方三八石余・畠方四二石余。


坂下村
さかのしたむら

[現在地名]北部町下硯川しもすずりかわ 坂下

井芹いせり川左岸の台地斜面にあり、北は豆尾まめお村、南は徳王とくおう村に接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によれば、田方五町六反一畝余・畠方一一町七反九畝余、分米一四七石七斗余で、竈数五・家数一二・人数一二、牛馬三とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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