デジタル大辞泉
「坂下」の意味・読み・例文・類語
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さか‐もと【坂下・坂本】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙 坂の下。峠のふもと。さかした。
- [初出の実例]「黄泉比良(よもつひら)〈略〉坂の坂本(さかもと)に到りし時」(出典:古事記(712)上)
- [ 2 ] ( 坂本 )
- [ 一 ] ( 碓氷(うすい)峠のふもとにあるところから ) 群馬県西端、松井田町の地名。中山道の松井田と信州軽井沢の間にあった旧宿駅。
- [ 二 ] ( 比叡(ひえい)山のふもとにあるところから ) 滋賀県大津市の地名。旧滋賀郡坂本村。延暦寺及び日吉神社の門前町、北陸街道に沿う琵琶湖西岸の港町として発展した。現在は住宅地。昭和二六年(一九五一)大津市に編入。東坂本。
- [ 三 ] =にしさかもと(西坂本)
さか‐した【坂下】
- [ 1 ] 坂の下。坂の登り口。さかもと。
- [初出の実例]「坂下(サカジタ)に待たせて置た車に乗って三人の者はこれより上野の方へと参った」(出典:浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉二)
- [ 2 ] 岐阜県中津川市の地名。木曾川に沿い、長野との県境にある。かつては養蚕業の一中心地。現在は製材業が盛ん。JR中央本線が通じる。
さかのした【坂下】
- ( 「さかした」とも ) 三重県亀山市の地名。鈴鹿峠の南側のふもとにあり、東海道五十三次の関と土山との間にあった宿駅。
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坂下
さかんそ
[現在地名]名張市安部田 坂ノ下
名張から奈良へ行く主要路は笠間峠越の道であり、峠に登る坂の下に発達した集落なのでこの地名が生れた。サカンソという俗称は坂裾からの転訛であろう。建長四年(一二五二)正月一一日付尼観明房田畠処分状(百巻本東大寺文書)によれば、黒田本庄内坂下の畠二段ほかを善俊房に譲っているが、当時坂下は黒田に含まれていたらしく、ここから笠間峠に登る坂も黒田坂と称されたものであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
坂下(岐阜県)
さかした
岐阜県南東部、恵那郡(えなぐん)にあった旧町名(坂下町(ちょう))。現在は中津川市の中部東寄りを占める地域。木曽(きそ)川の右岸に位置し、長野県に接する。旧坂下町は、1911年(明治44)町制施行。2005年(平成17)付知(つけち)、福岡の2町、川上(かわうえ)、加子母(かしも)、蛭川(ひるかわ)の3村、および長野県山口村とともに中津川市に編入。地域の中心部は、川上(かわうえ)川が木曽川に合流するあたり、JR中央本線坂下駅前付近の段丘上にある。付近には水平のずれの目だつ阿寺断層(あてらだんそう)があって有名。また、国道256号が地域の中央を横断する。稲作を中心に野菜や花卉(かき)などの複合経営が行われる。工業では木材、木製品のほか、時計、楽器などが生産される。明治初年の廃仏棄釈で寺院がない。中心地の北西、上野台地に椛ノ湖(はなのこ)の整備造成のとき、縄文遺跡が発見された。
[上島正徳]
『『坂下町史』(1963・坂下町)』
坂下(三重県)
さかした
三重県亀山市関(せき)町地区の一集落。旧坂下村。室町期からみえる地名で、鈴鹿(すずか)峠の東麓(とうろく)に位置し、江戸時代には東海道48番の宿。本陣3、脇本陣1、旅籠(はたご)48(東海道宿村大概帳)があり、鈴鹿馬子唄(まごうた)に「坂は照る照る鈴鹿は曇る……」と歌われたが、鉄道時代になって急速にさびれ、宿場のおもかげもいまはない。国道1号が通じる。
[伊藤達雄]
坂下(福島県)
ばんげ
福島県西部、河沼(かわぬま)郡会津坂下町の中心地区。旧坂下町。古くは番下とも書いた。江戸時代は在郷町で、越後(えちご)街道、下野(しもつけ)街道の宿駅として繁栄した。JR只見(ただみ)線会津坂下駅がある。
[編集部]
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坂下[町]【さかした】
岐阜県東部,恵那(えな)郡の旧町。木曾川と川上川の合流点付近の低地に主集落がある。米,茶,クリ,トマトなどを産する。木工業が盛んで手すき和紙も特産する。2005年2月恵那郡付知町,福岡町,蛭川村,川上村,加子母村,長野県木曾郡山口村と中津川市へ編入。29.77km2。5574人(2003)。
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坂下
さかした
岐阜県南東部,中津川市中東部の旧町域。木曾川中流域の木曾谷の南西部にある。 1911年町制。 2005年中津川市に編入。先史時代の遺跡がみられる。農林業を主とし,中心集落には製材,繊維工場が立地。手漉き和紙が特産。裏木曾県立自然公園に属する。
坂下
さかした
三重県北部,亀山市中北部の旧村域。地名は鈴鹿峠の下に位置することに由来。東海道五十三次の宿場町で,京からは峠を下っての泊まり,江戸からは峠にかかる前の宿泊地として栄えた。天保年間 (1830~44) の頃は本陣3,脇本陣1を含む戸数約 300のうち,3分の1が旅籠屋であった。明治以後は交通機関の変化によりその役割を終えた。
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世界大百科事典(旧版)内の坂下の言及
【会津坂下[町]】より
…町の西半分は丘陵からなり,只見川が北流する。中心地の坂下は越後街道の宿場町として発達し,会津若松,喜多方,会津高田,柳津などからいずれも12kmほどの距離にある交通の要衝で,六斎市もたった。明治・大正期には郡役所も置かれ,大沼,河沼を合わせた両沼地方の行政・商業の中心でもあった。…
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