上中里村(読み)かみなかざとむら

日本歴史地名大系 「上中里村」の解説

上中里村
かみなかざとむら

[現在地名]北区上中里一―三丁目・昭和町しようわまち一―三丁目

西ヶ原にしがはら村の北東にあり、北は梶原堀之内かじわらほりのうち村。日光御成道が通る。中世平塚ひらつか郷の中心部にあたる。田園簿には宮谷戸みやがいと村、延宝二年(一六七四)四月の平塚明神社領分検地帳(平塚神社文書)にも「武州豊嶋郡宮外戸村」とあり、江戸時代初期から前期には宮谷戸村・宮外戸村といったが、元禄郷帳には上中里村とある。田園簿では田九四石余・畑八三石余。うち旗本山川領一二七石余・平塚大明神領五〇石。以後支配は幕末まで同じ(旧高旧領取調帳など)。西ヶ原村にまたがって一万二千五三二坪の御用屋敷があり、うち当村分は七千七四五坪。


上中里村
かみなかざとむら

[現在地名]富士宮市大中里おおなかざと

沼久保ぬまくぼ村の北、安居山あごやま村の北東、潤井うるい川中流右岸の平地および丘陵地に立地する。地内で清水しみず(音無川)潤井川に合流する。天正一八年(一五九〇)一二月二八日の豊臣秀吉朱印状(大宮司富士家文書)で富士浅間社(富士山本宮浅間大社)大宮司領として中里郷高二一石余が安堵されている。寛永改高附帳に上中里村とみえ、田方二二六石余・畑方七二石余。元禄郷帳では高三四八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば甲斐甲府藩領。宝永二年(一七〇五)一部が旗本渡辺領となる(富士宮市史)。享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳(明治大学刑事博物館蔵)によれば、高二八石余は幕府領、ほかは旗本大森領・同渡辺領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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