上坂郷(読み)こうざかごう

日本歴史地名大系 「上坂郷」の解説

上坂郷
こうざかごう

現市域北東部のあね川左岸、東上坂ひがしこうざか町・西上坂町・千草ちくさ町・垣籠かいごめ町・保多ほだ町・春近はるちか町・新栄にいさか町・南小足みなみこあし町付近に比定され、神坂とも記す。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)によると、当郷のことと考えられる「上坂田郷」に封戸五〇戸が設定されている。弘安三年(一二八〇)一二月には、「近江国坂田北郡上坂南郷」の田地一反九〇歩が大原おおはら観音寺(現坂田郡山東町)に寄進された(「円智田地寄進状」大原観音寺文書)。同八年八月に至っても、奈良東大寺の封戸五〇戸が当郷に存続している(「東大寺注進状案」東大寺文書)。永仁四年(一二九六)二月一六日の尼妙阿田地寄進状案(大原観音寺文書)には「神坂南郷」とあり、延慶二年(一三〇九)三月七日の小足範忠田地避渡状(同文書)によれば、郷内三反の田地が小足氏相伝の私領であったことが知られる。


上坂郷
かむさかごう

和名抄」東急本は上板郷とするも、これは坂の誤写。訓は高山寺本に「加无左賀」(カムサカ)、東急本に「加无佐加」、刊本に「加無佐加」とある。本来坂田とよばれた地域が上下に二分割されて郷となったもので、天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に上坂田郷と記されていることがそれを物語る。平城宮跡出土木簡の「坂田郡上作贄三斗員六十三隻」の上作は当郷と思われ、中世史料ではあるが大原観音寺文書の永仁四年(一二九六)二月一六日の尼妙阿田地寄進状案には「坂田北郡神坂南郷」ともみえ、上作・神坂と表記することもあったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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