朝日日本歴史人物事典 「浅井久政」の解説
浅井久政
生年:生年不詳
北近江(滋賀県)の戦国大名。亮政の子。通称新九郎。左兵衛尉,下野守。亮政の正室蔵屋には初め男子がなく,長女鶴千代の婿に一族田屋氏から明政を迎えていたが,のち側室(尼子氏)に生まれた久政が,天文11(1542)年父の死により家督を継ぐことになった。これを機に,亮政に実権を奪われていた守護京極氏が攻勢に転じ,同18年京極高広(高延)との和睦を余儀なくされたうえ,南近江の六角氏からは,嫡子新九郎(長政)に六角義賢の諱の1字を受けて賢政と名乗らせ,義賢の家臣の娘を妻として迎えるよう強要された。こうした弱腰の外交に重臣らの不満は高まり,久政は賢政の妻を離縁して六角氏と断交するが,翌年,野良田(彦根市)で賢政が浅井氏として初めて六角軍を破ると,賢政を支持する重臣らによって隠居させられた。しかしその後も家臣に出陣命令を出すなどの活動がみえ,領国支配を側面から支え続けていたことがわかる。織田信長に小谷城(湖北町)を攻められ,長政より1日前に自殺,徳勝寺(長浜市)に葬られた。
(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報