近江国(読み)オウミノクニ

デジタル大辞泉 「近江国」の意味・読み・例文・類語

おうみ‐の‐くに〔あふみ‐〕【近江国】

近江

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日本歴史地名大系 「近江国」の解説

近江国
おうみのくに

近江国は一二郡からなり、甲賀郡だけが琵琶湖に臨まない。その甲賀郡を除いて、近江の国の形をみると、湖を中央部に置く回廊をなしていることが歴然とする。またとくに愛知えち郡・神崎郡国境の山から湖岸まで細長い郡域だが、その形はなんとか湖まで手を伸ばそうとしているようにもみえる。一方、甲賀郡は栗太くりた野洲やす蒲生がもう神崎各郡を束ねるように湖南東に郡域を広げ、伊賀・伊勢両国と接し、近江と両国の緩衝地帯ともいうべき観がある。しかし甲賀郡ばかりではない。伊賀・伊勢・美濃越前若狭丹波山城の七国と接し、大和国とも近い近江一国全体が湖を中央に抱えた緩衝地帯という性格を有したといえるかもしれない。

古代

〔湖国の黎明〕

湖国に人間の営みが始まったのは、現在のところ一万四千年前とされるが、それ以来野山の恵みとともに湖の恵みがその生活の基盤となってきた。とくに稲作文化が伝来した弥生時代には湖畔低地平地などに水田が営まれ、それまでよりもはるかに多くの人口を支えられるようになったから、この時代には近江の人口も飛躍的に増えたと思われる。ちょうどこの頃は日本にクニができ始める時期でもあり、「漢書」「後漢書」などの中国文献にみえる国家があちこちに成立したようで、当然近江にもその波は及んだことであろう。残念ながらその実態は知りがたいが、あの邪馬台国の時代に近江にもいくつものクニができたのではないか。やがて三世紀末・四世紀初めに古墳時代に入るが、奈良盆地東南部に成立した大和王権の大王のもとに、日本列島のかなりの部分は政治的に統合されていくが、近江もその支配下に入ったことであろう。それに伴い近江でも古墳が造られ始める。大王による列島の統一は、一方でその力をかりた近江の豪族の権力をも拡大させたのである。

〔高穴穂宮〕

大和王権の時代、近江に宮都が設けられた。高穴穂たかあなほ宮である。現大津市穴太あのうにその地名を残し、「古事記」成務天皇段に「志賀高穴穂宮」というように滋賀郡の地を想定した宮都であることは確実だが、考古学的にはまだ確認されておらず、その実在性には疑問がある。「日本書紀」には景行天皇が三年いたといい(景行天皇五八年二月一一日条)、「古事記」では成務天皇が営んだというなど、だれの宮都とするかという重要な点でも両文献で違いがある。穴穂という名称は安康天皇(実名は穴穂)の名代、つまりこの大王の宮廷を支える物資や労働力を提供する隷属民の穴穂部にちなむものであろうし、少なくとも高穴穂宮という名は五世紀後半の安康天皇の時代以後にできたものであろうと思われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「近江国」の意味・わかりやすい解説

近江国 (おうみのくに)

旧国名。江州。現在の滋賀県にあたる。

東山道に属する大国(《延喜式》)。〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。国衙跡が大津市瀬田神領町の三大寺丘陵で発掘され,国府域は方8町の四周に半町の外縁がめぐっていたと考えられている。

 東山道は山科盆地から逢坂(おうさか)関(大津市)で近江国に入り,瀬田橋をわたって国府の南辺中央から国府域に入り,北東から抜けて湖東平野を北上し,美濃国の不破(ふわ)関(岐阜県不破郡関ヶ原町)へ続いていた。長岡京時代以降の東海道は守山市付近まで東山道と兼用で,ここから野洲川の河谷を経て伊勢国の鈴鹿関(三重県鈴鹿市)へ向かった。一方,北陸道は湖西を北上し,越前国の愛発(あらち)関(福井県敦賀市)に通じていた。このように近江国は東日本への出入口にあたり,いわゆる〈三関〉も近江国の外周に存在していた。それゆえ近江国は政治的に重要な意味をもっていた。藤原氏がいち早く国守と按察使(あぜち)の両ポストを利用して近江国を掌握したのもそのためである。667年中大兄皇子(天智天皇)は,朝鮮半島の白村江(はくそんこう)の敗戦による危機意識から近江大津宮への遷都を強行した。この宮の所在地は長く不明であったが,大津市錦織が有力視されている。天智天皇の死後,壬申の乱が起きるが,その主戦場は大和とともに近江であった。742年には紫香楽(しがらき)宮(甲賀市,旧信楽町)が造営され,その近傍の甲賀寺で盧舎那仏造立も起工された。また藤原仲麻呂は保良宮(ほらのみや)(大津市)の造営を主唱し,孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたが,道鏡の出現をきっかけに両者の関係は決裂し,ともに平城京に帰り,孝謙太上天皇が皇権の主要部分を掌握した。これも一因となって権力の動揺した仲麻呂は,体制立直しの拠点を近江国に求めたが,近江を主戦場とする戦いの末打倒された。

 琵琶湖における湖上交通の発達は他国にない特色である。《万葉集》に〈近江の海湊(みと)は八十あり〉と詠まれるように,塩津(長浜市,旧西浅井町),阿渡水門(あどのみなと)(安曇川河口),夜須潮(やすのみなと)(野洲川河口),その他の多くの港津があった。内陸地方は野洲川,日野川,愛知(えち)川,姉川,安曇(あど)川などの河川水運によって琵琶湖と結ばれ,さらに瀬田川-宇治川-木津川水系によって平城京を中心とする畿内主要部とも結びついていた。近江国の古代における物産としては,錦綾などの高級織物(綾の実物が正倉院古裂(こぎれ)中に現存),米,鉄をはじめとする各種の鉱産物,種々の薬草類,藤原京・平城京や石山寺その他の造営に用いられた材木,フナその他の水産物などをあげることができる。式内社は小野神社,日吉神社,建部神社をはじめ143所155座あり,大和,伊勢,出雲についで多い。

 平安京時代になると都と隣接した国として,さらに主要な位置を占めた。またそれより少し前の8世紀末に近江出身の最澄が開いた比叡山の延暦寺は,円仁,円珍らによってさらに発展したが,10世紀末以降智証(円珍)派の園城寺(おんじようじ)との抗争を繰り返した。源平内乱期にはこれら寺院勢力が近江源氏と結んで平氏討滅を誘引した。
執筆者:

鎌倉幕府の成立によって,近江で勢力を振るうようになったのは佐々木氏である。佐々木氏は宇多源氏の出で,蒲生郡佐々木荘を本拠とし,平治の乱では源義朝に従って敗れ,相模に下ったが,源頼朝の挙兵に功があり,鎌倉初期に佐々木定綱が近江の守護に任命されて以来,戦国末まで400年近く,一族で近江守護を独占した。近江では延暦寺(山門),園城寺(寺門)の二大寺院が競合していたが,延暦寺は鎌倉幕府や守護佐々木氏と対立し,一方幕府は園城寺には保護を加えた。これら武家勢力と延暦寺との対立は,中世を通じて継続した。定綱の嫡子広綱は,承久の乱に後鳥羽上皇方について斬られた。広綱の弟信綱は,この乱に幕府方として殊勲があり,佐々木氏の嫡流となった。信綱ののち一族は諸家に分かれたが,家督は三男泰綱の系統に伝えられ,近江守護職を世襲した。これが六角氏である。しかし南北朝時代になると,泰綱の弟氏信を祖とする京極氏が台頭した。とくに京極高氏(佐々木道誉)は足利尊氏を助けて室町幕府の創設に功績があり,京極氏は近江北部での強力な支配権を認められ,南部の六角氏と拮抗するようになった。高氏の子の秀綱,高秀はすでに南北朝時代に侍所頭人(所司)となっていたが,室町時代に入ると,頭人には京極氏のほか,赤松,一色,山名の諸氏が交代で就任することになり,四職といわれ,管領につぐ重職となった。京極氏が幕府の中枢に連なったのに対し,六角氏は幕府から警戒されていた。

 南北朝時代には,足利方と南朝方の対立,足利方の内部における足利尊氏・義詮と足利直義・直冬の対立にまきこまれ,近江の国人は複雑な動きを示した。足利方の内紛に乗じ,南朝方やそれと結びついた直冬勢は,1352年(正平7・文和1)から61年(正平16・康安1)にかけて,4度にわたり都に攻め入り,尊氏・義詮はそのつど近江・美濃に逃れた。52年,はじめて近江に逃れた義詮は,都を奪回して後,半済令を出した。近江・美濃・尾張3ヵ国の本所領の年貢の半分を,兵糧米として1年を限って軍勢に預けるという法令であり,翌年には伊勢,志摩,伊賀,和泉,河内にも適用された。これら諸国はこのときの合戦の中心となった地域であり,幕府は国人の要求に応じて兵糧米を確保し,彼らを味方につけようとしたのである。半済はのち永続的,全国的となり,荘園の年貢だけでなく,土地そのものを半分に分割するようになって,荘園制を崩壊に導いた。

鎌倉中期以来,農村では農民の自治的結合としての惣(村)が形成された。近江の農村はとくに先進的であり,すでに1262年(弘長2)現存最古の村掟(村法)が蒲生郡奥島荘で制定されている。村掟は惣村の規約であり,違反者に対する制裁をも規定しており,惣村自治の発達を示すものである。近江では奥島荘のほか,菅浦荘,今堀郷(保内商人)などでも,村掟をはじめ惣村の活動を示す史料が多い。惣村結合の紐帯としての役割を果たしたのは神社であり,惣の構成員は宮座の座衆となっているが,近江では多賀大社など宮座の発達が顕著であった。都と東国を結ぶ交通路では,東海道より中山道のほうが発達し,宿駅も整備された。東海道と中山道を結ぶ千草街道八風(はつぷう)街道も,伊勢に赴く近江商人らに利用され,北国へは西近江路が通じていた。琵琶湖の湖上交通も盛んで,堅田の地侍は回送,造船,漁業の特権を握っていた。延暦寺や園城寺は各地に関所を設け,関銭を徴収した。交通の発達に伴い,運送業者である馬借の活躍が見られた。とくに大津坂本には多くの馬借が集まった。すでに南北朝時代の1379年(天授5・康暦1)には坂本の馬借が関所のことで延暦寺と対立し,延暦寺末社の京の祇園社に乱入した。しかしこれは延暦寺の内輪もめであり,実は坂本の馬借は山門の統制下に置かれていた。1433年(永享5)坂本の馬借が都に乱入しようとし,幕府の命でこれを防いだ山名勢と戦い,また上洛途上の信濃守護小笠原氏が草津で馬借,土民に襲われるなど,馬借は武家勢力にも敵対したが,これらの事件の背後には幕府と延暦寺との緊迫した対立関係があったのである。

 惣村自治の発達は,農民の動きを活発にした。南北朝時代から逃散(ちようさん)などが見られたが,室町時代には集団的武力行動としての土一揆へと発展した。近江の土一揆はしばしば畿内一円に波及する一揆の端緒となっており,また機動性に富む馬借が指導的な役割を果たしていることが多い。馬借は運輸業のみではなく農耕にも携わっていたから,実際は農民の一揆と馬借の蜂起とは区別しがたいのである。〈日本開白(闢)以来,土民の蜂起,これ初なり〉(《大乗院日記目録》)といわれた1428年の正長の土一揆も,坂本の馬借の蜂起にはじまり,京都から畿内一円にひろがったものである。山門統制下の馬借が土一揆で指導的役割を果たした結果,近江の土一揆は特殊な政治的色彩を帯びることもあった。41年(嘉吉1)に京都周辺で起こった大規模な徳政一揆も近江に端を発したもので,しかも馬借が先頭に立っているが,馬借は山門と六角氏の対立の中で六角氏の京都の宿所を襲うなど,徳政一揆とは別の目的で行動している。しかし土一揆が徳政を要求することは,金融面での大勢力でもあった山門との対立を招き,山門の支配力の低下につれて,馬借が山門に敵対する傾向も見られるようになった。湖東をはじめ各地の郷村には市場が形成され,商人が成長した。これらの近江商人は延暦寺や六角氏の保護を受け,特権を与えられた座商人で,美濃,伊勢,若狭,越前,京都などに行商した。しかし座商制度はしだいにゆるみ,1549年(天文18)には六角氏の城下町石寺で最初の楽市が行われた。

応仁の乱では京極氏は細川方,六角氏は山名方につき,山門・寺門の争いや土一揆もあって,近江では戦乱が絶えなかった。その後,近江守護六角高頼は領国支配の強化を図り,幕府の命に背いて国内の寺社本所領や幕府近臣の所領を押領(おうりよう)した。1487年(長享1)将軍足利義尚は近江に出陣して高頼を伊勢に追ったが,義尚は陣中で没した。あとを受けた将軍義稙も目的を果たしえず,結局六角氏は南近江を回復した。その後将軍の地位はつねに不安定で,争いに敗れた将軍はしばしば近江に亡命した。1508年(永正5)将軍義澄は,前将軍義稙に追われて甲賀に逃れ,蒲生郡岡山で没し,再度将軍となった義稙も支援者の大内義興らと対立し,一時甲賀に隠退した。義晴,義輝も近江に逃れたことがあり,義晴は滋賀郡穴太(あのう)で没した。室町幕府最後の将軍義昭も,甲賀郡和田の和田惟政の館にいたことがあるが,結局68年(永禄11)織田信長に迎えられた。信長は義昭を奉じて上洛し,義昭を将軍職につけた。戦国時代には近江に難を避ける貴族,僧侶,文人も多く,彼らによって都の文化が伝えられた。

 六角氏の領国経営もしだいに不安定となり,浅井氏の進出や家中の内紛に苦しんだ。内紛の中で1567年に制定された《六角氏式目》は,家臣の団結を図ったものであるが,翌年には上洛する信長軍に観音寺城を攻略され,六角義賢・義治父子は甲賀山中に逃れ,六角氏は衰亡した。北近江の京極氏にも内紛が続き,その中から被官の浅井氏が台頭した。すなわち浅井亮政は勢力を拡大して国人を組織し,六角氏と争い,越前の朝倉氏と結び,ついに京極氏から自立して北近江を統一した。その孫長政は六角氏の内紛に乗じて勢力を拡大し,織田信長と結び,信長上洛の際は先鋒として観音寺城に六角氏を破り,近江の大半を領した。しかし信長が朝倉氏を攻めるようになると信長に敵対し,滅ぼされた。
執筆者:

1573年(天正1)越前国に朝倉義景を滅ぼした信長は,近江に転じ小谷(おだに)城を攻めて浅井久政・長政父子を自殺させ,ほぼ近江一国を掌中に収めた。浅井氏旧領を継いだ木下(豊臣)秀吉は今浜に築城,長浜と改めた。76年,信長は湖東の安土に築城し岐阜より移った。山頂に五層七重の天守閣を築き,山麓に諸将の邸宅を配し,城下を楽市として諸国往還の商人を集め,またセミナリヨ(学校)を建て南蛮文化を導入した。82年本能寺の変で信長は自刃,その戦乱で安土城は焼失した。明智光秀を討った秀吉は,翌83年に賤ヶ岳の戦で柴田勝家を破って近江に歩を進め,湖東,湖北の村々に検地を施行し,これはやがて全国に太閤検地として及ぶこととなる。その土地政策の一環として96年(慶長1)石田三成は,湖北自領の村々に,おとな百姓による中間搾取や小農使役の禁令を発した。豊臣政権は近江一国で約23万石の蔵入地を領有し,ちなみに98年の目録によれば,近江国の総石高は77万5379石であった。

1600年の関ヶ原の戦の結果,石田三成は敗死した。大坂方との決戦に備え,徳川家康は02年近江総検地を実施して兵糧の確保を図り,また近江支配のため,湖南では大津城を膳所ヶ崎(ぜぜがさき)に移し,大津・坂本・瀬田地方のおさえとして戸田一西(3万石)を入れた。湖北では井伊直政をして慶長・元和年間にかけ彦根城を築かせて18万石を領知せしめた。15年(元和1)大坂の陣に勝利を収めた江戸幕府は,大坂を中心とした畿内支配体制のなかに近江も組み入れ,五畿内奉行(惣代官ともいう)喜多見五郎左衛門,ついで小堀政一(遠州)らが江州奉行を兼任した。寛永期に入ると近江国内の大名領,旗本領の整備が進み,膳所藩では17年戸田氏転封のあと本多康俊,菅沼定好,石川忠総と替わり,51年(慶安4)再度本多氏が領有,石川氏の7万石を継いだ。85年(貞享2)の膳所城下町は戸数930戸,うち武家屋敷499戸,町家409戸である。

 彦根藩井伊氏は大坂の陣後加増され,1633年(寛永10)に下野,武蔵のうち2万石を合わせ30万石,翌年城付預米5万石が付せられた。彦根城下は95年(元禄8)町数53町のうち39町を町家が占めた。そのほか1619年大溝藩分部氏(2万石),20年日野仁正寺藩市橋氏(2万石)と小藩が多く,33年水口城は番城制による番手の大名が交代で守備に当たっていたが,82年(天和2)加藤明友(2万石)が入封した。近江国内では大名,旗本,寺社領などの小所領が錯綜し,かつ飛地や相給が多く,《文政高帳》によれば国内の領主総数は248家,その内訳は宮門跡5家,公卿3家,幕領支配地代官2家,近江在国大名9家,他国大名24家,旗本146家,寺社59家となっている。これら諸藩の財政事情がしだいに悪化し搾取が強化されると,農民の強訴(ごうそ),一揆も頻発し,1761年(宝暦11)の彦根藩における〈積銀仕法〉への愛知川筋一揆,81年(天明1)膳所藩における銀30目の新税への打毀(うちこわし)をともなう全藩一揆,1842年(天保13)幕府の役人市野茂三郎らの新検に対する甲賀,栗太,野洲3郡の農民一揆(三上山騒動)など,大きな騒動がたびたび起こった。

北国筋の藩米,特産物は寛永年間には越前国敦賀や小浜港に荷揚げされ,山越え荷駄により湖北の海津,塩津,大浦の諸浦に運送され,これらの地より琵琶湖の舟運で大津に回送されていたが,1672年(寛文12)西廻航路の開発で湖上運送は激減した。彦根藩は藩初に松原,米原,長浜のいわゆる彦根三湊を開き,18世紀以降には藩内外の貨客を大津へ回送した。大津には秀吉時代,湖上運送の独占を認めていた大津百艘船があったが,湖上運送の権利をめぐって大津と彦根三湊間,あるいは三湊の間で論争が起こった。ちなみに琵琶湖の総船数は1601年1200艘,18世紀初頭の享保年間には3939艘と増加をみた。

 幕府は主要街道の整備を行ったが,近江国内では江戸と京を結ぶ東海道,中山道があり,1604年大津町奉行大久保長安は東海道土山,水口,石部宿の人足・伝馬の常備,宿駅内の地子銭・問屋役料の免除,継飛脚御用米などの助成を図り,中山道では守山,武佐,愛知川,高宮,鳥居本,番場,醒井,柏原など8宿駅が定められ,伝馬が常備された。近世中期以降,宿駅の疲弊にともなう伝馬の不足を補うため,宿駅付近の村々に助郷や加助郷が命じられ(高100石につき2人・2疋の人馬徴発),農民の負担が増し,幕末に近づくに従い助郷免除の訴願や騒動が各地で起こった。また湖西の北国街道や主要宿駅間をつなぐ脇街道として浜街道(寛永以降朝鮮人街道と呼ぶ),伊勢・多賀詣の御代参街道をはじめ,近江と伊勢,美濃,越前を結ぶ諸脇往還路も整備された。

農村では一般に単婚小家族経営による主穀生産が展開,反当り平均8斗~1石7斗といわれて土地生産性も高く,かつ京坂間で〈江州米〉として品質も高い評価を得ていた。1ヵ国の総石高は慶長年間77万石台,宝永年間83万石台,明治初年85万石台と,17世紀を中心に生産は上昇した。これは琵琶湖をとりまく洪積丘陵や河川三角州の新田開発に基づくものであるが,近世初期には伊勢,中期には小浜,敦賀や京の問屋から干鰯(ほしか),油かすなどの金肥を仕入れての土地生産性の向上が一因となっている。元禄年間には大津干鰯仲間が成立,各地にも干鰯仲間が成立した。慶長年間高島郡で起こった茶生産は湖東の村々にひろがり,幕末開港後は輸出品のひとつとなった。また江戸初期より犬上郡高宮地方中心の高宮布や野洲郡の野洲さらしなどの麻織物生産が農間余業として発展し,19世紀には蒲生郡近江八幡中心の麻蚊帳,坂田郡長浜中心の長浜縮緬,伊香郡の大音糸・西山糸などの楽器糸生産が,問屋制による農家副業生産として知られる。これらの産物は近江八幡や神崎郡五箇荘に出身をもつ近江商人の持下り荷の中心となり,長浜縮緬は彦根藩国産方の統制を受けて京へ移出された。琵琶湖の水産物はフナ,コイ,モロコ,イサザが主で,近世湖上の漁場数は106ヵ所,大網場所8浦があった。魞(えり)漁は蒲生・愛知郡が盛んで,瀬田川の蜆搔(しじみかき)も知られ,漁獲物は大津,京へ送られたが,江州独自の鮒鮓(ふなずし)は諸藩の献上品,贈答品として珍重された。戦国期から近世初期には滋賀郡の穴太積石垣の石工が城郭構築に活躍し,甲賀郡の甲賀大工は幕府作事奉行の差配を受け,幕府御用を務めた坂田郡国友村の鉄砲鍛冶,蒲生郡日野鉄砲鍛冶による鉄砲生産も知られるが,近世に入り著しく衰退した。街道の往来が盛んになると,甲賀郡の信楽焼,売薬製造,愛知郡の挽物,坂田郡の伊吹もぐさなどの需要が増大した。

近世中期以降,諸藩で藩校の設立がみられ,1799年(寛政11)彦根藩の稽古館(1830年弘道館と改名),1808年(文化5)膳所藩の遵義堂をはじめ,水口藩の翼輪堂,大溝藩の修身堂,西大路藩の日新館と,つぎつぎに建った。また近江出身の学者では,中江藤樹が高島郡上小川村,崎門派三傑の一人浅見絅斎(けいさい)も高島郡太田村出身で,絅斎の弟子に犬上郡郷士の若林強斎,木下順庵に学んだ伊香郡の雨森芳洲ら儒者がいた。このほか野洲町の北村季吟,近江八幡出身の町人学者伴蒿渓,石の研究《雲根志》の著者に草津の木内石亭,鉄砲鍛冶の技術を生かして天体望遠鏡を作製し,天文観測記録を残した国友藤兵衛がいた。また天明・寛政年間には彦根の温恭会をはじめ各地に心学の結社ができた。一方,元禄年間,松尾芭蕉が膳所の幻住庵に住み,その弟子に堅田の千那,彦根の許由らが出て近江の俳風を樹立した。画壇では近江出身と伝える桃山期の狩野山楽,海北友松が有名であるが,仏画の日野の紀楳亭,文人画の栗太郡の横井金谷もおり,寛文から元禄年間に大津追分の土産として売られた大津絵も知られる。

彦根城下埋木舎(うもれぎのや)で32歳まで部屋住みとして過ごした井伊直弼は,兄直亮のあとを継ぎ彦根藩主となり大老となったが,1860年(万延1)桜田門外で倒れた。彦根藩は10万石を減封され,この後藩内では勤王派が台頭し,鳥羽・伏見の戦では官軍に属した。膳所藩,水口藩などでも,家中は勤王派,佐幕派と分かれて抗争する所があったが,彦根藩にならい討幕派についた。

 1868年(明治1)1月設置された大津裁判所は,4月大津県と改め,幕領,2藩,2宮家,86旗本の所領を管轄下に置いた。71年7月廃藩置県により諸藩はそのまま県を呼称したが,11月近江国を南北二分し,大津県と長浜県に統合された。翌72年大津県は滋賀県に,長浜県は犬上県と改称したが9月には滋賀,犬上2県は改めて合併,滋賀県として統一された。76年滋賀県管轄下に敦賀県の敦賀,三方,遠敷,大飯郡が編入されたが,81年これらの郡は福井県管轄となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近江国」の意味・わかりやすい解説

近江国
おうみのくに

東山道(とうさんどう)の一国。現在の滋賀県。四周を若狭(わかさ)、越前(えちぜん)、美濃(みの)、伊勢(いせ)、伊賀(いが)、山城(やましろ)、丹波(たんば)の諸国に接する。東には伊吹(いぶき)・鈴鹿(すずか)、西には比良(ひら)・比叡(ひえい)の山が連なり、南には信楽(しがらき)の台地が続き、中央には琵琶(びわ)湖がある。

 縄文前期の遺跡には石山(いしやま)貝塚(大津市)や、下豊浦(しもといら)遺跡(近江八幡(おうみはちまん)市)、西野遺跡(米原(まいばら)市)などがあり、弥生(やよい)時代の遺跡には大中の湖南(だいなかのこみなみ)遺跡(東近江市、近江八幡市)や、銅鐸(どうたく)を24個も出土した野洲(やす)市小篠原(こしのはら)がある。古墳時代になると、近江八幡市の瓢箪山(ひょうたんやま)古墳や高島市の稲荷山(いなりやま)古墳など、数多くの群集墳が散在している。大化(たいか)前代には、野洲市付近を拠点とする安国造(やすのくにのみやつこ)や、律令(りつりょう)制の国名と一致する近淡海国造(ちかつおうみのくにのみやつこ)がいた。大化改新後の667年(天智天皇6)には都が大津宮に移され、その翌年、天智(てんじ)天皇に従って大海人皇子(おおあまのおうじ)や額田王(ぬかたのおおきみ)らが蒲生野(がもうの)に遊猟したときの歌が『万葉集』に収められている。しかし672年(天武天皇1)壬申(じんしん)の乱で近江軍が敗れると、ふたたび都は飛鳥(あすか)に移された。『延喜式(えんぎしき)』の規定によると近江は大国で、滋賀、栗太(くりた)、甲賀(こうが)、野洲、蒲生、神崎(かんざき)、愛智(えち)、犬上(いぬかみ)、坂田(さかた)、浅井(あさい)、伊香(いか)、高島(たかしま)の12郡からなり、国府は栗太郡勢多(せた)(瀬田)に置かれていた。聖武(しょうむ)天皇の時代には山城国恭仁(くに)京に遷都され、742年(天平14)甲賀郡紫香楽(しがらき)に離宮がつくられるが、745年ふたたび都が平城京に戻されるに及んで紫香楽宮は盗賊の荒らすところとなった。794年(延暦13)桓武(かんむ)天皇が都を平安京に移すと、近江はその東玄関となり、入唐求法僧(にっとうぐほうそう)最澄(さいちょう)によって建立された比叡山延暦寺(えんりゃくじ)をはじめ、園城寺(おんじょうじ)や湖東三山などの天台寺院が栄えた。

 源平の乱で近江も荒れたが、鎌倉時代になると近江源氏佐々木氏が力を有し、中世末まで400年にわたり守護として君臨した。承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき、守護佐々木広綱(ひろつな)は京方となったが、弟信綱(のぶつな)が幕府方につき守護職を得た。この子孫から朽木(くつき)氏や京極(きょうごく)氏が出、京極高氏(たかうじ)(佐々木導誉(どうよ))は南北朝期に活躍した。本家佐々木六角(ろっかく)氏は湖東の観音寺(かんのんじ)城に居を構えた。また近江には中世村落の惣(そう)結合の成長を示す多くの史料が残されており、土一揆(つちいっき)や一向(いっこう)一揆の舞台ともなった。1568年(永禄11)には織田信長によって観音寺城が陥落し、1573年(天正1)浅井氏が信長軍に敗れると、信長は安土城を築き本拠とした。戦国時代の湖北は戦乱に明け暮れたが、石田三成(みつなり)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、狩野山楽(かのうさんらく)らが続々と中央に出て活躍した。本能寺の変で信長が倒れ、豊臣(とよとみ)秀吉から徳川家康の時代に移ると、近江は彦根(ひこね)藩のほかに、水口(みなくち)、膳所(ぜぜ)、山上(やまがみ)、宮川(みやかわ)、大溝(おおみぞ)、仁正寺(にんしょうじ)、堅田(かたた)などの小藩に分かれた。近世の近江の総石高は83万0616石であった。湖上交通も盛んとなり、近江米や近江麻布の生産で近江商人が全国に出て活躍した。明治維新を迎え廃藩置県(1871)により、大津県、膳所県、水口県、西大路県、山上県は、大津県となり1872年(明治5)1月滋賀県に、また彦根県、宮川県、朝日山県は、長浜県、犬上県を経て同年2月滋賀県に繰り入れられた。

[渡邊守順]

『太田亮著『日本国誌資料叢書 近江』(1925・磯部甲陽堂)』『『滋賀県史』全6巻(1928・滋賀県)』


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百科事典マイペディア 「近江国」の意味・わかりやすい解説

近江国【おうみのくに】

旧国名。江州とも。東山道の一国。今の滋賀県。古地名は近淡海(ちかつおうみ),すなわち琵琶湖の意。畿内に隣接するために古くから開け,大津には667年から天智天皇の都が置かれ,国司は藤原氏が多かった。《延喜式》に大国,12郡。中世にかけて佐々木氏およびその後裔(こうえい)の六角(ろっかく)・京極(きょうごく)氏,また浅井氏が支配。織田信長の浅井討伐,安土築城,石田三成の佐和山築城を経て,近世の支配は井伊氏の彦根藩その他に分かれた。→近江大津宮安土城近江商人
→関連項目粟津橋本御厨葛川近畿地方朽木荘滋賀[県]菅浦得珍保

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藩名・旧国名がわかる事典 「近江国」の解説

おうみのくに【近江国】

現在の滋賀県域を占めた旧国名。国名は琵琶(びわ)湖が古くは近淡海(ちかつおうみ)と呼ばれたことに由来。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の大津(おおつ)市におかれていた。平安時代には権門(けんもん)寺社、とくに延暦(えんりゃく)寺荘園(しょうえん)が多かった。鎌倉時代守護佐々木氏南北朝時代から室町時代には、佐々木氏が六角(ろっかく)氏京極(きょうごく)氏に分かれ、半国ずつ支配。戦国時代には浅井氏が勢力を得、のち織田信長(おだのぶなが)が平定、安土(あづち)城を築いて全国統一の拠点とした。このころから近江商人が全国的に活躍。徳川家康(とくがわいえやす)は近江支配のため彦根(ひこね)城を築かせ、大坂の陣以後、井伊直孝(なおたか)が彦根藩の基礎を固めた。旗本・寺社領などが錯綜(さくそう)し、幕末に至る。1871年(明治4)の廃藩置県により大津県、長浜(ながはま)県の2県となる。1872年(明治5)に大津県は滋賀県、長浜県は犬上(いぬかみ)県と改称、のち犬上県は滋賀県に編入された。◇江州(ごうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近江国」の意味・わかりやすい解説

近江国
おうみのくに

現在の滋賀県。東山道の一国。大国。もと淡海,額田,近淡海安の国造および犬上県主が支配。国府,国分寺はともに現在の大津市にあった。天智6 (667) 年,都が飛鳥から当国の大津宮に移ったが,都が畿外になることは異例のことであった。『延喜式』には滋賀 (しか) ,栗太 (くるもと) ,甲賀 (かふか) ,野洲 (やす) ,蒲生 (かまふ) ,神崎 (かむさき) ,愛智 (えち) ,犬上 (いぬかみ) ,坂田 (さかた) ,浅井 (あさゐ) ,伊香 (いかこ) ,高嶋 (たかしま) の 12郡がみえ,『和名抄』には郷 92,田3万 3402町余が数えられている。鎌倉時代には佐々木氏が守護として重きをなし,室町時代には佐々木氏が京極家と六角家とに分れて近江国の半国ずつを支配したが,戦国時代には新興の浅井氏に敗れ,次いで織田信長が浅井氏を滅ぼし,蒲生郡の安土に城を築いて根拠地とした。豊臣秀吉の時代には堀秀政が佐和山,蒲生氏郷が日野,のちに京極高次が八幡山を与えられて統治。江戸時代には井伊氏の彦根藩,本多氏の膳所 (ぜぜ) 藩,加藤氏の水口藩,堀田氏の宮川藩,分部氏の大溝藩,遠藤氏の三上藩などの小藩に分割されていた。明治4 (1871) 年の廃藩置県では,4月に各藩のうち三上藩が和泉国に移されたほかはそれぞれ県となったが,同年 11月には大津県と長浜県とに併合され,同5年には大津県が滋賀県に,長浜県が犬上県に改められ,さらに2県が合併して滋賀県となる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近江国」の解説

近江国
おうみのくに

東山道の国。現在の滋賀県。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では滋賀・栗本(くるもと)(栗太)・甲賀・野洲(やす)・蒲生(がもう)・神埼・愛智(えち)・犬上・坂田・浅井・伊香(いかこ)・高島の12郡からなる。天智天皇により一時近江大津宮が営まれたほか,紫香楽(しがらき)宮・保良(ほら)宮なども造営された。壬申の乱や恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の合戦地。国府は栗太郡(現,大津市)にあり,国分寺も同地におかれたが焼失し,国昌寺に定められた。石山寺・園城寺・延暦寺など大寺院も多い。「和名抄」所載田数は3万3402町余。「延喜式」では調は綾・帛・絹や雑器,庸は米など。鎌倉・室町時代にかけて佐々木氏が守護に補任された。中世には在地勢力の活動もめざましく,しばしば土一揆がおきた。近世は彦根藩・膳所(ぜぜ)藩をはじめとする多数の藩があり,他国大名の藩領,幕領,旗本領,宮家領,寺社領が錯雑していた。1868年(明治元)幕領,旗本領などが大津県となり,71年の廃藩置県の後,大津県と長浜県が成立,72年大津県が滋賀県,長浜県が犬上県と改称,同年両県が合併して滋賀県が成立。

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