下谷貝村(読み)しもやがいむら

日本歴史地名大系 「下谷貝村」の解説

下谷貝村
しもやがいむら

[現在地名]下館西谷貝にしやがい

下館城下西下り口、結城道沿いにあり、南は外塚とのつか村、北は石原田いしはらだ村。大谷おおや川にまたがって位置したが、河川改修により、現在同河川は西谷貝の西を流れる。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高三一〇・八四六石とある。寛永二年の下谷貝村田畑帳(堀江家文書)によると、耕作農民は八五人(うち五二人が他村)、持高は世襲名主半左衛門が五八・九石余、ほかに五〇石以上一人、一五―四九石が三人で、大半は五石以下とある。

下谷貝村
しもやがいむら

[現在地名]真壁町下谷貝

観音かんのん川左岸にあり、北は上谷貝かみやがい村、南は細柴ほそしば村。弘安大田文に「谷貝十五丁」とある。中世は真壁氏が支配し、文禄五年(一五九六)御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高千四石三斗壱升 此内三十五石五斗八升 荒 定納百四十五貫三百八十三文 真壁預り下屋かい」とある。慶長一一年(一六〇六)浅野氏領となり、翌一二年に検地が行われた(「延宝四年下谷貝村人別帳」市村家文書)。のち天領・旗本領となり、延宝四年(一六七六)の村高は一二七四・六〇一石、人別七九三(男三八〇・女三七八・童三五)、家数二二五、馬九五(同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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