現佐原市香取に比定される中世の地名。香取神宮の鎮座地で、古代は「和名抄」にみえる香取郡香取郷の郷域にあったと考えられる。応保二年(一一六二)六月三日の香取社大禰宜大中臣実房譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に「香取村」とみえ、大禰宜家領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北部の市。2006年3月佐原(さわら)市と小見川(おみがわ),栗源(くりもと),山田(やまだ)の3町が合体して成立した。人口8万2866(2010)。
香取市東部の旧町。旧香取郡所属。人口2万5399(2005)。利根川南岸にあり,町域の南部は台地が占める。中心集落の小見川は近世に小見川藩1万石の陣屋が置かれた地で,松平,土井,安藤,内田各氏ら譜代大名が支配した。また利根川水運の河港でもあり米の積出しやイワシの取引で栄え,近世後期には酒・しょうゆ醸造業もおこった。水運が衰えた明治後期以降は佐原に遅れをとり,周辺農村の小商業中心にとどまった。利根川沿岸低地は県内有数の穀倉地帯であり,台地では近年,施設園芸がふえている。1973年,利根川に小見川大橋が完成したのを機に茨城県の鹿島地区との関係が深まり,進出企業の社宅もつくられている。台地上には良文貝塚(史),阿玉台貝塚(史)など縄文時代の遺跡が多い。享保年間(1716-36)江戸で活躍した歌舞伎役者初世松本幸四郎,近代医学の先駆者の一人佐藤尚中の出身地である。JR成田線が通じる。
香取市南西部の旧町。旧香取郡所属。人口5190(2005)。町域は下総台地と太平洋に注ぐ栗山川河谷の低地からなる。江戸時代は幕府の馬牧油田牧が置かれた地で,明治以降開墾が進み,県内有数の畑作地となった。農業が主たる産業で,サツマイモを中心にサトイモ,ニンジン,ラッカセイなどの野菜栽培が盛ん。旧佐原市の商圏に属する。
執筆者:千葉 立也
香取市北部の旧市。北は利根川に面し,南は下総台地に広がる。1951年佐原町,香取町,東大戸村,香西村が合体,市制。人口4万5965(2005)。古代から香取神宮の神領として開けた地で,中世には利根川沿いに津が点々と存在し,津は香取神宮に供祭料を貢献して漁猟と交通の特権をえた海夫の基地となっていた。津は近世に河岸となり,中心の佐原は利根川水運の発展によってその河港として栄え,利根川下流一帯の米,肥料の集散地となり,酒,しょうゆ,みそなどの醸造業も発達した。また近世初期に市域北部の十六島の開発が始まった。佐原は1898-1931年の間は国鉄成田線の終点で,水運と鉄道の結節点の商業都市として発展し,のちに水郷大橋の架橋,JR鹿島線の開通,さらに東関東自動車道の開通(佐原香取インターチェンジが所在する)によって茨城県南部にも商圏が広がっている。水郷の中心地でもあり,与田浦に10万本のハナショウブが咲く水生植物園や大利根博物館(現,県立中央博物館大利根分館)があり,釣りの名所でもある。市内に伊能忠敬旧宅,忠敬の墓がある観福寺などがあり,夏に八坂神社,秋に諏訪神社で行われる佐原祭では山車(だし)が繰り出し,佐原ばやしが演じられる。
執筆者:菊地 利夫
1304年(嘉元2)の香取文書に佐原の名がみえる。88年(元中5・嘉慶2)の同文書によれば市場が開かれていたことが知られ,14世紀ころにはすでに香取神宮の門前町の一つとなっていた。また応安(1368-75)ころの海夫注文(香取文書)には〈さわらの津〉があり,水運の要津でもあった。1590年(天正18)鳥居元忠が矢作に入城し,1602年(慶長7)奥州磐城平へ転封後は,天領,旗本領となった。43年(寛永20)に市場をめぐる争論があり,そのときの〈定〉によると,上宿,中宿,下宿に六斎市が立っていた。90年(元禄3)の幕府河岸調査で津出可岸(つだしがし)として認められた。1774年(安永3)には河岸問屋株が公認され,1740年(元文5)には高瀬船,艜船(ひらたぶね)など56艘の川船があって,近世中期より発達した醸造業の産物である酒,しょうゆ,水郷地帯の米を積み出し,江戸より諸物資を積み帰る河岸としても栄えた。1863年(文久3)水戸天狗党に襲われ,領主津田氏はこれに対抗できず,佐倉藩が出兵して鎮圧,その後は佐倉藩領となり明治に至った。
執筆者:川名 登
香取市南部の旧町。旧香取郡所属。人口1万0778(2005)。下総台地の東部にあり,町域の東部を利根川に注ぐ黒部川が流れ,その流域に水田が開ける。主産業は農業で,谷津田の米作と畑地でのサツマイモ,ラッカセイの栽培が中心であったが,近年はゴボウ,ニラなどの野菜,カーネーションの栽培が行われ,養豚,養鶏など畜産も活発である。北総東部用水により畑地灌漑が行われる。商業は振るわず,旧小見川町の商圏に属し,行政的にも旧小見川町とのつながりが強い。山倉の山倉大神は〈かぜなおしの神〉として知られる。宇賀神社境内の府馬の大クスは天然記念物に指定されている。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県北東部に位置する市。2006年(平成18)、佐原市(さわらし)、香取郡小見川町(おみがわまち)、山田町、栗源町(くりもとまち)が合併して成立。市名は香取郡の郡名による。市域の北部を利根川が東流し、流域に水田地帯が広がる。南部は北総台地の一角で山林と畑地が優越する。利根川の南岸を国道356号、JR成田線が走り、同線香取駅からJR鹿島線(かしません)が分岐。南西―北東方に東関東自動車道、国道51号が貫通し、成田市とを結ぶ東総有料道路が南部を走り、東関東自動車道の佐原香取インターチェンジがある。かつて北部域には海が入り込み、香取海、香取流海などと称された内海となっており、北総台地との縁辺部には良文貝塚(よしぶみかいづか)、阿玉台貝塚(あたまだいかいづか)(ともに国指定史跡)などの縄文遺跡や古墳群が広く分布する。古代、大和政権の東国経営の前進基地として香取社(香取神宮)が創建され、のち、同社は下総(しもうさ)国の一宮とされた。中世には香取海で「海夫」とよばれる漁民集団が「おみかわの津」「つのみやの津」「さわらの津」などを拠点に活躍。戦国期には千葉氏一族の国分氏が矢作(やはぎ)城、粟飯原(あいばら)氏が小見川城などに割拠した。江戸時代は幕府領や旗本知行の村が多かった。1654年(承応3)利根川の流路が銚子(ちょうし)へと変えられると、北部の低湿地帯の干拓が進んだ。また奥羽地方の物資を銚子から江戸へ運ぶ利根川舟運が開けると、佐原河岸と小見川河岸は周辺地域の物資の集散地として繁栄。市場や酒造業などで栄えた佐原町のにぎわいぶりは、里謡で江戸のそれと比べられるほどであった。なお小見川町は小見川藩の城下町でもあった。市域の下総台地には、幕府が経営する佐倉七牧のうちの油田(あぶらた)牧と矢作牧が設定されている。
現在の基幹産業は農業。水郷地帯は、かつて田舟を使って農作業していたが、第二次世界大戦後、乾田化された。伊能忠敬(ただたか)旧宅(国指定史跡)や13棟の県指定有形文化財を含む、佐原市街の香取街道沿いと小野川沿いに十字型をなす商家の町並みは、重要伝統的建造物群保存地区。佐原本宿が祀る八坂神社の祇園(ぎおん)祭と同新宿が祀る諏訪(すわ)神社の祭礼には山車(だし)がひかれ、両社で演じられる佐原囃子とともに佐原の山車行事として国指定重要無形民俗文化財で、2016年にユネスコの無形文化遺産に記載された。香取神宮には国宝の海獣葡萄(かいじゅうぶどう)鏡や数多くの宝物がある。観福寺は、川崎、西新井とともに日本三大厄除弘法大師に数えられ、寺宝の釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観世音菩薩の4体の金銅製懸仏は国指定重要文化財。境内には伊能忠敬や国学者楫取魚彦の墓がある。伊能忠敬記念館所蔵の「伊能忠敬関係資料」は国宝に指定されている。府馬(ふま)の大クスは国指定天然記念物。香取神宮や水郷一帯は水郷筑波国定公園の指定域。面積262.35平方キロメートル、人口7万2356(2020)。
[編集部]
千葉県北東部、香取市の一地区。利根(とね)川下流に位置し、下総(しもうさ)国一宮(いちのみや)の香取神宮の門前町。JR成田線と鹿島線(かしません)の分岐点。香取神宮は武神として江戸時代には幕府の保護を得、鹿島神宮、息栖(いきす)神社を巡る三社詣(もう)でが盛んであった。
[山村順次]
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