日本歴史地名大系 「与瀬村」の解説
与瀬村
よせむら
相模川上流左岸、段丘上に位置する。甲州道の与瀬宿が置かれた。東は
永正一七年(一五二〇)三月二五日付の熊野御師に関する旦那譲状(熊野那智大社文書)に「相州奥三保之事」とある一四ヵ村のなかに「日向六ケ村之内与瀬村」とある。小田原衆所領役帳に「与瀬之村」として「七貫弐百文 石井五郎左衛門、五貫五百文 石井四郎太郎、六貫弐百七十文 石井藤左衛門、六貫弐百七十文 石井助次郎、廿七貫四百五拾文 守屋若狭守、壱貫九百五十文 神領、七百五拾文 白沢是ハ荒地、壱貫弐百文 そく沢是ハ荒地、壱貫文 川崩、壱貫文 守屋若狭守屋敷、以上五拾八貫九百四十文」とみえる。
近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領。正保二年(一六四五)の村明細帳(県史六)によれば家数一二三(本百姓九八・水呑二五)、人数八一三(男三七六・女四三七)、馬一〇五、御林二ヵ所。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報