デジタル大辞泉
「一里塚」の意味・読み・例文・類語
いちり‐づか【一里塚】
1 主要な街道に1里(約3.927キロ)ごとに築かれた塚。榎・松などが植えられ、旅人のための里程標となった。
2 大きな仕事や目標へむかう過程での一つの段階。「遠大な計画の一里塚ともなる事業が成った」
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いちり‐づか【一里塚】
- 〘 名詞 〙
- ① 街道の一里ごとに土を盛り、その上に木を植えて、里程のしるしとした塚。道の両側に向かい合わせに築いてあり、木はエノキが原則であった。里程標(りていひょう)。一里山。
一里塚①〈伊勢参宮名所図会〉
- [初出の実例]「江城日本橋を一里塚のもとと定め」(出典:慶長見聞集(1614)二)
- 「くたびれたやつが見つける壱里塚」(出典:雑俳・柳多留‐八(1773))
- ② ( 一休禅師作と伝えられる「門松は冥土の旅の一里塚目出度(めでたく)もあり目出度もなし」の歌から ) 門松のこと。
- [初出の実例]「年の旅松竹のある一里塚」(出典:雑俳・柳多留‐四九(1810))
- ③ 大きな目標や遠大な仕事などを達成していく途中の通過点、目印となるもの。
- [初出の実例]「そは稿をあらたむべきものなれば、今はこの一里塚に筆を擱くべし」(出典:落梅集(1901)〈島崎藤村〉)
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一里塚
いちりづか
信濃町大字野尻字上ノ原にある。北国脇往還(現国道一八号)を柏原村から野尻村の貫ノ木集落を過ぎ、野尻宿のほうに下ると、現在の神山外人別荘地へ分れる道の下手左右にある。野尻宿に向かって左手の塚は周囲三六・五メートル、高さ二・六メートル、右手の塚はそれぞれ三九・一メートル、二・六メートルを測る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
一里塚 (いちりづか)
おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。一里山ともいう。起源は古代の中国に求められ,日本では古代の国境の印に求める説や,室町時代に足利義晴が諸国に命じたともいう。織田信長,豊臣秀吉のころから,36町を1里として1里ごとに5間四方の塚が築かれ始めた。全国的規模で構築されるのは,1604年(慶長9)徳川家康が秀忠に命じて,江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。塚にはエノキや松などの樹木を植えることが多い。目的は里程や人馬賃銭の目安にしたものともいわれる。
執筆者:波田野 富信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一里塚
いちりづか
江戸時代の主要街道の両側に,1里 (36町=約 4km) ごとに築かれた塚で,路程標の役割を果した。その起源は古代中国にあり,日本では戦国時代末期にはすでに存在していたが,慶長9 (1604) 年,徳川家康が江戸日本橋を起点として,東海,東山,北陸の3街道に1里ごとに5間 (約 9m) 四方の塚を築かせ,塚の上にはえのきや松を植え旅行者に便宜を与えた。幕府はのち3街道以外にもこの制度を広め,諸藩もこれにならい脇街道 (→脇往還 ) に築いたこともあったが,その後改修に熱意がなく次第に廃壊し,天明年間 (1781~89) 頃には原形を失うものも多かったという。明治維新後は道路の改修が進むとともにほとんど除去された。東京では北区西ヶ原にその遺跡がある。
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一里塚
いちりづか
街道の両側に1里ごとに築かれた塚。塚上にはエノキなどの樹木が植えられていた。織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉により始められたといわれるが、1604年(慶長9)江戸幕府により東海・東山・北陸道をはじめ、全国規模での設置が始まった。旅行者の便、運賃決定の目安、度量衡統一政策の一環として設置されたが、街道の付け替えなどにも旧位置を動かず、修理もほとんど行われなかったため、近世後期には荒廃した。塚には榎を植えたものが多いが、松などもある。天保(てんぽう)(1830~44)末年東海道品川―京都間には104の塚が現存した。明治以降、敷地の民間への払い下げや道路拡張により大部分が取り壊された。保存の良好なものは国の史跡に指定されている。
[山本光正]
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一里塚【いちりづか】
おもな道路の両側に1里ごとに築いた塚。起源は古代の中国に求められ,日本では室町時代からあったともいう。織豊期から5間四方の塚が築かれ始め,江戸時代に整備された。江戸時代のそれは主要街道に設けられ,その上にエノキなどを植えた。1604年徳川秀忠が東海・東山・北陸の3道に設けたのに始まるとされる。
→関連項目宿村大概帳
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一里塚
いちりづか
道の両脇に1里ごとに塚を築き木を植えた。起源には諸説あり,日本では高野山の町石や藤原清衡(きよひら)のたてた笠卒塔婆(かさそとば)をはじめ,織田信長や豊臣秀吉の設置した塚がある。制度として確立したのは近世で,1604年(慶長9)徳川家康は秀忠に江戸日本橋を起点に造築させた。東海道・東山道は永井白元・本多光重が,北陸道は山本重蔵・米田正勝が奉行となり,江戸町年寄樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門らがこれに属し,大久保長安が統轄した。一里塚は旅の目安ともなったが,度量衡統一の目的もあったと考えられる。塚上には多く榎が植えられたが,松や杉もあった。明治以後里程標の設置,交通機関の発達により失われていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
一里塚
(岐阜県大垣市久徳町40-3)
「大垣市景観遺産」指定の地域遺産。
江戸時代に全長58kmの美濃路には計13か所の一里塚が設けられたが、現存するのは、愛知県一宮市冨田の一里塚と、この一里塚のみ。市指定史跡
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
一里塚
いちりづか
江戸時代,街道に1里(約4㎞)ごとに設けられた路程標
戦国末期よりすでに一部に設けられたが,1604年江戸幕府が江戸日本橋を基点にして東海・東山(中山)・北陸の3道に築き整備された。多くはその上に榎の木を植えた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
一里塚
江戸開幕後、江戸を中心とした交通網の再編成を目指して、日本橋を起点とし、主要街道に一里ごとに設置された塚。松や榎の植えられた五間四方の一里塚は、旅人の恰好の休息の場となった。
一里塚
→「いつか必ず役に立つ!編 覚えておいて損しない日本史」の「一里塚」
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
一里塚
道のわきに1里ごとに塚をつくって、木を植えたりしたものです。旅の目安としてつくられましたが、明治時代になると次第になくなります。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報