吉野村(読み)よしのむら

日本歴史地名大系 「吉野村」の解説

吉野村
よしのむら

[現在地名]鹿児島市吉野町・大明丘だいみようがおか一―三丁目

稲荷いなり木川)流域の台地に位置し、南は鹿児島城下、北は吉田よしだ宮之浦みやのうら(現吉田町)、西は稲荷川を境に下田しもた村・坂元さかもと村。東部はいそとよばれ、鹿児島湾・桜島に臨む景勝地で、島津氏の別邸(仙巌園)などがあった。山本氏日記(旧記雑録)弘治元年(一五五五)八月二七日条に「従是鹿児島衆夜内ニ吉野々原迄被罷出候ヘ共」とみえ、鹿児島衆が夜のうちに出撃している。元亀二年(一五七一)肝付・伊東・伊地知・根占各氏の連合軍が鹿児島・桜島を襲撃した際、地内の海に面した滝ヶ水(現竜ヶ水)にも攻め込んでいる(「長谷場越前自記」同書)。「上井覚兼日記」天正二年(一五七四)一一月一一日条によれば、島津義久が鹿児島福昌寺の庫裏の葺茅を下ろすために吉野を訪れている。当地から北方にかけて吉野牧が広がり、同書に馬追いの記述などが散見される。同一二年一二月には島津義久が吉野で狩を行っている(同書)

慶長二〇年(一六一五)三月一六日の鹿児島御支配所知行名寄帳(旧記雑録)によれば、井畔弐介に吉野村のうちと馬越まこし(現菱刈町)の替地として大口小木原こぎはら(現大口市)のうちが与えられている。

吉野村
よしのむら

[現在地名]豊科町大字豊科 吉野

南端は標高五六五メートル、北端は標高五五〇メートルで、南西から北東に向かって緩傾斜のあずさ川扇状地上にある。初見は天正一〇年(一五八二)三月の織田信長の禁制で、吉野郷とある。

<資料は省略されています>

梶海渡かじがいと荒井あらい中村なかむら中原なかはら吉野町よしのまちの諸集落からなり、南北およそ一千四〇〇メートル、東西およそ一千七〇〇メートルにわたる地域で、集落の位置は東に偏している。これは用水の関係で、開拓が東から始まっていることによる。隣村の中曾根なかぞねとの境に流れ堰がある。水源付近に、ながれ・流れ畑・水出みずで清水田しみずだなどの地字があり、梓川の旧河床にあたっており、湧水による堰である。このほかに中曾根なかぞね熊倉くまぐら(現豊科町)の湧水を中曾根の権現社付近でせき上げて梶海渡へ向かって開削した権現堰、中曾根川を下中曾根でせき上げて熊倉道沿いに梶海渡に至る横堰、更に縦堰の鳥羽堰尻の西沢にしざわ中沢なかざわがある。

吉野村
よしのむら

[現在地名]吉野谷村吉野

ほぼ北西流する手取川右岸に位置し、南東は佐良さら村。集落はおもに同川河岸段丘上にあり、北部に雲龍うんりゆう山・仙雲せんうん峰などの山々が迫る。「日本洞上聯灯録」に祇陀ぎだ寺の所在地として「河内荘吉野郷」がみえる。文明一八年(一四八六)には道興が吉野川に至っているが(廻国雑記)、これは当地付近の手取川の呼称とみられる。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高九二七俵。正保郷帳では高六三六石余、田方八町七反余・畑方三三町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(吉野区有文書)の高六五一石、免三ツ八歩、小物成は山役五四〇匁。寛文年間の百姓数六一(高免付給人帳)

吉野村
よしのむら

[現在地名]藤野町吉野

相模川上流左岸、沢井さわい村の東南に位置し、西は小淵おぶち村、南は相模川を隔てて日連ひづれ村、東は与瀬よせ(現相模湖町)に接する。村内を甲州道が走り、吉野宿が置かれた。東は与瀬宿、西は小淵村の関野せきの宿。永正一七年(一五二〇)三月二五日付旦那譲状(熊野那智大社文書)に、「相州奥三保之事」として「吉野村」がみえる。小田原衆所領役帳には、「吉野村、敵知行、半所務」として「五貫五百文 守屋縫殿助、三貫文 大塚図書助、五貫文是ハ当代大和守合力 同人、弐貫文 同四郎左衛門、此外拾貫文 大和守所務」とみえる。

近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領。

吉野村
よしのむら

[現在地名]国府町吉野

山根やまね村の南東に位置し、ふくろ川を挟んで北は新井にい村。南西の峠を越えると八東はつとう篠浪ささなみ(現郡家町)に至る。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)では「吉野村ヨリ郡境迄十町七間 郡境ヨリ八東郡篠波迄十五町四十五間」と記されている。村名は当地が因幡の修験者の国峯こくぶ(現大茅山)入りの起点にあたることにちなむといい(勝見名跡誌)、「因幡民談記」によれば当地を立って峰を登り、峰続きの麓の新宮(現岩美町南西部)と称された地へ至る回峰路があったという。

もとは松尾まつお村を含んでいたが、元禄一四年(一七〇一)同村は当村の枝郷として分村した(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)

吉野村
よしのむら

[現在地名]松野町吉野

吉野川下流域に位置する。東は蕨生わらびお村、西は松丸まつまる村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「吉野村 茅山有、川有、村下ヲ流、井手不被上、日損所」と村名がみえ、吉野川が村下を流れているため灌漑に不利で、干害を受けやすい村であった。吉田藩領。

太閤検地(天正一五年―文禄三年)の石高は六四三石六斗四升で、正保検地(正保二―四年)では七〇三石六斗二升七合となっている。

「吉田古記」によると、当村の円通山観福かんぷく(真言宗、本尊十一面観音)の大般若経の第二二一巻の奥書に、至徳三年(一三八六)九月一四日付で「於吉野草林菴之者也」とあり、一四世紀には吉野の地名が存在したことがわかる。

吉野村
よしのむら

[現在地名]佐田町吉野

東は飯石いいし波多はた(現掛合町)、西は上橋波かみはしなみ村、北は高津屋たかつや村。南の満寿まんじゆ(六五九メートル)を分水嶺として北流する高津屋川の沖積地が広がり、標高三五〇メートル級の高原地帯。集落は横屋よこやきやくもと菅沢すげさわ客戸谷きやくどだにで構成される。寛永六年(一六二九)の吉野村御検地帳写によれば、田方八町七反余・分米一一三石余、畑方一町余・分米六石、屋敷数九(うち役屋敷八)とある。正保国絵図に村名がみえる。

吉野村
よしのむら

[現在地名]能勢町吉野

田尻たじり川最上流域の歌垣うたがき山北麓に位置する。南を除き山に囲まれた山間地。北・東は丹波国桑田くわた東加舎ひがしかや(現京都府亀岡市)、南の一部は杉原すぎはら村。中央を能勢街道がほぼ南北に通る。嘉吉三年(一四四三)一二月二五日の能勢郡採銅所西郷算用状(壬生家文書)に「一、採銅所御年米事(中略)九斗五升、当年吉野・倉垣損免」とある。また当地の吉野遺跡からは室町前期(一四世紀後半)のものとみられる瓦器碗・土師器皿・青磁碗・陶器片などが採集されている。

吉野村
よしのむら

[現在地名]幸手市吉野・さかえ

天神島てんじんしま村の南西、渡良瀬わたらせ川の古い流路跡の自然堤防上に位置し、南は大島おおじま(現杉戸町)。自然堤防の微高地と後背低湿地からなる。村内中央を下総国関宿せきやど(現千葉県関宿町)へ通ずる道が通る。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)奥州仙台伊達家の久喜鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)

吉野村
よしのむら

[現在地名]加西市吉野町

きし村の南に位置し、八千種やちくさ春日かすが山系の東麓に立地する。古くは山下新田と称したという。歳之当御条目(吉野町有文書)によれば、当村の住人で修験行者であった荒木藤三郎が大和国吉野大峯よしのおおみね蔵王ざおう権現(現奈良県吉野町金峯山寺)を深く信仰し、嘉禄元年(一二二五)施主本願となって、蔵王権現社を祭祀したのが村名の起りという。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳など)

吉野村
よしのむら

[現在地名]宮崎市吉野

東流する本庄ほんじよう川の右岸に位置し、諸県もろかた郡に属する。東は宮崎郡堤内つつみうち村、北は本庄川を挟んで本庄村・宮崎郡宮王丸みやおうまる(現国富町)、西は嵐田あらしだ(現同上)、南は花見はなみ(現高岡町)。本庄川には山下渡があった。吉埜とも記される。天正八年(一五八〇)正月一〇日の伊東義賢坪付(山田文書)に吉野一二町とみえ、本領山田やまだ(現西都市)六〇町とあや(現綾町)地頭職とともに山田土佐守宗正の知行となっている。

吉野村
よしのむら

[現在地名]海南町吉野

多良たら村の北西に位置し、南部を海部川が東流する。慶長二年(一五九七)の分限帳に「吉野」とあり、高三三六石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「よし野」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「よしの村」と記される。正保国絵図では吉野村として高三三五石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方二九五石余・畠方四〇石余、芝山の注記がある。

吉野村
よしのむら

[現在地名]南淡町灘吉野なだよしの

諭鶴羽ゆづるは山系の谷間を南東へ下るかまたけ川を隔て南は山本やまもと村。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「なだ」一〇三石六斗のうちに含まれ、正保国絵図に下灘しもなだ一二ヵ村の一として村名がみえる。「味地草」によれば、天正一二年の地震により当地では四五戸・八九人が被災し、村は山間の地から今の海岸に移ったという。享保元年(一七一六)の両国郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高一四石余。

吉野村
よしのむら

[現在地名]大沢野町吉野

神通川東岸にあり、神通川が庵谷いおりだに峠で東へ大きく迂回する曲り角に位置。神通川に沿って北は太田薄波おおたうすなみ村、南は伏木ふしき村、対岸は婦負ねい片掛かたかけ(現細入村)。「梅花無尽蔵」長享三年(一四八九)五月四日条に吉野とみえ、万里集九は当地で一泊している。大永二年(一五二二)七月一三日の中務丞富信譲状(越中古文書所収杉木家文書)に吉野とみえる。永禄八年(一五六五)六月一〇日の河上綱通行手形(川上行雄所蔵文書)に「吉野 魚谷 篠津」とみえ、交通上の要衝であった。正保郷帳では高九八石余、田方八反余・畑方五町七反余。

吉野村
よしのむら

[現在地名]相生町吉野

おんどり村の西、那賀川左岸に位置し、本村(吉野)・吉野下・川口かわぐちの三集落が川沿いの丘陵裾に連なっている。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「よし野村」とみえるが、正保国絵図、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳、天保郷帳には記載がない。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳によると吉野村の高二九石余は蔵入。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では人数七八(男二六・女五二)。文化一〇年(一八一三)の高都帳によると高一一七石余。「阿波志」は新客野・夏野なつの・北原・禰宜ねぎ・前・原の六里をあげ、土田は水陸田「(町脱カ)五段八畝」、家数二一・人数一一〇。

吉野村
よしのむら

[現在地名]上宝村吉野

高原たかはら川と蔵柱くらばしら川に挟まれた河岸段丘北西部に位置し、東は本郷ほんごう村、北西対岸は数河すごう(現神岡町)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では吉野郷に属し、「吉野所々四村分」として田方四三一石余・畑方二五九石余とある。同一八年の郷帳では高原郷に属し、高九六石余。元禄検地反歩帳によると、高一四六石余、田二町一反余・畑三町余。「飛騨国中案内」では、用水の便が悪いので畑作が多く、免二割七分七厘余、家数五五(うち百姓四六・門屋九)。天明八年(一七八八)の村明細帳によると、田一四石余・畑三八石余、反別田二町二反余・畑三三町余、新田として田一石余・畑一〇石、反別田二反余・畑五町五反余、家数五八、男一三一・女一二二。

吉野村
よしのむら

[現在地名]森田村中田なかた

田圃を隔てて北は近野ちかの(現木造町)、東は中田村、南は猫淵ねこふち村、西は上福原かみふくはら(現木造町)

享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合わせて二一町七反二畝二一歩、村高は一一一・五二三石であった。うち田方は二〇町六反二畝七歩で一〇七・八八石、上田と下々田のみで、下々田が一九町八反三畝八歩、九九・一六四石とあり、畑方は一町一反一四歩で三・六七三石、中畑と下々畑だけで、下々畑が六反一畝二八歩、〇・六一九石とある(数字は史料のとおり)

吉野村
よしのむら

[現在地名]増田町吉野

成瀬なるせ川の中流、南は川を挟んで荻袋おぎふくろ村、集落は狭い河岸段丘上にあり、下吉野しもよしの村・とびさわ村の枝郷がある。

慶安元年(一六四八)の仙北増田之内吉野村開御検地帳(増田町郷土史)には分米高三九石余、家一二軒とある。黒印村として独立したのはその後と思われる。寛文三年(一六六三)に雄勝郡となる。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)に「吉野村、家数拾軒、但平鹿郡横手山内平野沢村之内ぶどう村と山にて境但通径小道御座候」とあり、さらに「新田江也」と付記される。

吉野村
よしのむら

[現在地名]荻町柏原かしわばる

山崎やまさき(岩戸川)と大野川の中間に位置する標高五〇〇メートル前後の台地上の村。正保郷帳では柏原郷に属し、田方三五石余・畑方一一八石余。万治元年(一六五八)には上吉野村と仲吉野村に分れ、合計の田高四石余・畑高六〇石余・屋敷高七斗余とある(荻町史)。享保九年(一七二四)の申上ル覚(垣田家文書)に吉野村小庄屋久之丞・同村宗旨横目武左衛門がみえ、同一二年の申上ル覚(同文書)にもこの二人の署名がみえる。この申上ル覚によると、柏原組内喜三郎系転切支丹源次郎の曾孫新内の妻すて(一向宗平村満徳寺旦那)は夫新内病死後孫吉平と一緒に当村で生活していたが、この年八月二三日に八八歳で病死したという。

吉野村
よしのむら

[現在地名]城南町今吉野いまよしの 吉野

吉野山の南麓一帯を中心にまいばら台地北端にまで広がり、東麓に築地ついじ村、西にはいま村がある。吉野山周辺には古墳群の一部が字丸山まるやまを中心に発見されているが、第二次世界大戦中破壊され詳細は不明。南北朝内乱期に九州探題今川了俊の軍勢が吉野山に陣した(至徳元年九月日「安富了心(直安)軍忠状」深江文書)。慶長一二年(一六〇七)に検地帳が作成されている(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)が、慶長国絵図には村名はみえず築地村に含まれ、元禄国絵図にも「築地村之内吉野村」とある。

吉野村
よしのむら

[現在地名]魚津市吉野

早月はやつき川右岸の扇状地にあり、北は斉木さいき村、北西は早月川原はやつきかわら村。正保郷帳では高九〇八石余、田方六〇町余・畑方五反余、新田高九五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高七〇九石・免五ツ五分、明暦二年(一六五六)・寛文元年の新田高五八石、小物成は山役四七匁・蝋役九匁・鱒役二匁・鮎川役六匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の打銀高は七六七石(「高免帳」杉木家文書)

吉野村
よしのむら

[現在地名]池田町吉野

三都みと半島の中央部に位置し、池田湾に西面する海岸沿いに小集落を形成する。吉野段からは吉野石と称する庭石用の石材が採掘された。近世池田郷の枝村。村高は慶長一〇年(一六〇五)の検地で六一石余(小豆島全図)、延宝七年(一六七九)の検地では一三〇石余・反別一七町七反余(「延宝検地帳」池田町役場蔵)。宝暦明細帳によれば高一四八石余・反別二三町三反余(田四町三反余・畑一八町九反余)、家数八二・人数四〇二、牛二三、塩浜一町三反余・塩浜役一四八俵、船数九(一五―八石積)であった。

吉野村
よしのむら

[現在地名]富山市西押川にしおしかわ

西押川村の北に位置。押川村の枝村新田として、明暦四年(一六五八)から延宝年中(一六七三―八一)までに村立てされ、高五七石余(元禄一一年「古田新田高村付改帳」前田家文書)。富山藩領。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高四〇石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では請免高四〇石余・免三ツ一歩一厘、新田高二〇石余・平均免六歩五厘余、銀納畑九九一歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報