中津庄(読み)なかつのしよう

日本歴史地名大系 「中津庄」の解説

中津庄
なかつのしよう

現守山市北東部、野洲やす川下流域にあった庄園。中津神崎なかつかんざき庄ともよばれた。長保三年(一〇〇一)一二月の近江国符案(御府文書)には、四至として南は一〇条南畔、北は八条北畔を限るとあり、坪付では八条一一里―一四里・九条一一里―一四里・一〇条一一里―一四里にわたっているので、野洲川旧南北二流に沿った現幸津川さづかわ町・立田たつた町・服部はつとり町・新庄しんじよう町・笠原かさはら町にほぼ相当する。ただし西半にあたる各条一三里―一四里には葦原が広く混在していたから、琵琶湖沿岸部の湿地帯を開発予定として組込んでいたのであろう。立庄の時期等は不詳だが、数十年来「源寺」領で、長保元年、国司代々の先例と東三条院(藤原詮子)牒旨により租税官物を免除することが近江国衙から野洲南郡司へ伝えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む