日本歴史地名大系 「守山市」の解説 守山市もりやまし 面積:四四・一八平方キロ湖東平野南西部に位置。西は琵琶湖に面し、北から東にかけて野洲(やす)郡中主(ちゆうず)町・野洲町、南は栗太(くりた)郡栗東(りつとう)町・草津市。野洲川が野洲町・中主町境付近を流れ北西部で琵琶湖に注ぐ。中部から南部にかけて法竜(ほうりゆう)川・守山川・山賀(やまが)川・境(さかい)川などの伏流が西流する。なお現在の野洲川は昭和五四年(一九七九)に開削された新川で、もとはその南方を野洲川南流が流れていた。南東部を中山道とJR東海道本線がほぼ並行して走る。〔原始・古代〕市域は野洲川の氾濫原にあたるが、縄文時代からの生活の跡が残る。赤野井(あかのい)町地先の湖底遺跡赤野井湾(あかのいわん)遺跡からは縄文時代早期後半から末頃にかけての土器が出土している。服部(はつとり)遺跡は縄文時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡で、弥生時代中期の方形周溝墓群、弥生時代前期の水田跡などがあり、とくに水田は四〇〇面に達するものと推定され、用水路・堰状施設なども検出された。江戸時代には新庄(しんじよう)から銅鐸が発見されており、野洲川の流れが肥沃な土地を形成していたことが知られる。服部遺跡の古墳時代の周溝状遺構からは琴・田舟・玉製品も出土している。古墳時代の玉作遺跡にはほかに吉身西(よしみにし)遺跡・播磨田東(はりまだひがし)遺跡などがある。「日本書紀」安閑天皇二年の記事にみえる葦浦(あしうら)屯倉は、現三宅(みやけ)町の辺りに比定される中世の三宅郷に継承されたと考えられる。仏教の伝来もはやく、吉身町一帯は同書持統天皇八年(六九四)三月の記事にみえる「益須寺」があった地とされ、周辺からは白鳳期の瓦が出土している。同寺は郡名を冠することから郡司や近江国司とのつながりが深かったと推定され、同寺を安(野洲)国造の氏寺にあてる説もある。矢島(やじま)町の真光(しんこう)寺には長元二年(一〇二九)銘の観音菩薩像があり、杉江(すぎえ)町の小津(おづ)神社、幸津川(さづかわ)町の下新川(しもにいかわ)神社、吉身町の馬路石辺(うまじいそべ)神社、洲本(すもと)町の二つの己爾乃(こにの)神社などは、「延喜式」神名帳記載の「小津(ヲツノ)神社」「下新川(ニフカハノ)神社」「馬路石辺(ムマミチノイソヘノ)神社」「己尓乃(コニノ)神社二座」などに比定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「守山市」の意味・わかりやすい解説 守山〔市〕もりやま 滋賀県南西部,琵琶湖岸にある市。 1955年守山町と小津,玉津,河西,速野の4村が合体。 57年中洲村の一部を編入,70年市制。野洲川下流域の沖積地を占め,条里制遺構もみられる。中心市街地の守山は江戸時代は中山道の宿場町。「野洲さらし」の伝統をひく染色,漁網のほか,第2次世界大戦後,合成繊維,合成樹脂,船舶用エンジンなどの工業が進出。農村部は近江米の主産地で,湖岸の木浜 (このはま) はえり漁で知られる。国道 477号線が通り,琵琶湖大橋で大津市と結ぶ。最明寺の五重塔をはじめ,東門院,小津神社,火祭りで有名な勝部神社などには重要文化財が多い。湖岸一帯は琵琶湖国定公園に属する。面積 55.74km2。人口 8万3236(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by