摂津国(読み)セッツノクニ

デジタル大辞泉 「摂津国」の意味・読み・例文・類語

せっつ‐の‐くに【摂津国】

摂津

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日本歴史地名大系 「摂津国」の解説

摂津国
せつつのくに

古代

〔国の成立〕

摂津の地域は、現在おおむね猪名いな川・神崎川の線で東西に両分され、西半は兵庫県に、東半は大阪府に属する。以下に述べる摂津は、主として大阪府に属する部分についてである。その地は大阪府の北西の部分を占めるが、およそ淀川および現大阪市の東辺と南辺の一部を河内国との境とし、ほぼ現在の大和川の線をもって和泉国に接する。そのような境界が画されるのは、七世紀中葉以降、律令制の成立に伴って、地方行政区分としての国が設置されてからのことであろう。その国境が確定するのは、天武天皇一三年(六八四)に「諸国の堺を定む」と「日本書紀」にみえるが、その頃であろう。

津国の「摂津」は、難波津を管理するという意味であるから、この国は大化以前からの山や川などの自然的条件や、有力豪族勢力範囲といった歴史的条件に基づく地域区分によるのではなく、難波津を重視する律令国家の必要によって造られた国と考えられる。したがって律令政府による設定までは、摂津国の主要な部分は、河内の地域の一部とみなされていたであろう。「古事記」にのちの令制国の大和・河内・山背やましろ(山城)と同意義の倭・川内・山代の地名表記はあるが、摂津に対応するものがないのは、この国名と実体の成立の遅れることを示唆している。ただし摂津国は、はじめ「津国」と称していた可能性が強い。それは、摂津国と書いて「つのくに」と読むのが古代以来の慣例であること、「日本書紀」の応神天皇四一年二月条・舒明天皇三年九月条に「津国」とあること、養老職員令に「摂津国帯津国」とあることなどによる。おそらく律令政府は天武朝前後に都の外港としての難波津の重要性にかんがみ、河内の一部を割いて津国を建てたのであろう。その後、国名を二字に統一する過程で、木国・紀国が紀伊国に改められたように、津国も摂津国と表記されることになったのであろう。

〔古墳時代〕

旧石器から弥生時代までの摂津地域の歴史については総論で触れた。古墳時代前期の古墳の主要なものは、高槻たかつき市の弁天山べんてんやま古墳群、茨木いばらき市の将軍山しようぐんやま古墳・紫金山しきんざん古墳、豊中市の待兼山まちかねやま古墳、池田市の茶臼山ちやうすやま古墳・娯三堂ごさんどう古墳などであるが、前三者は三島平野を、後三者は猪名川左岸の平野をそれぞれ基盤とする豪族の墳墓と考えてよかろう。なかでも弁天山古墳群は全長一〇〇メートルを越える前方後円墳二基を含み、有力な首長の存在を物語っている。淀川の水運を制して、勢力を拡張したのかもしれない。

摂津国
せつつのくに

現兵庫県の南東端に位置する。北は丹波国、東は山城国、東から南は河内国、南東は和泉国、西は播磨国に接し、南は瀬戸内海に面する。摂津国は一三郡よりなるが、兵庫県域に含まれるのはその南西部分、すなわち川辺かわべ武庫むこ有馬ありま兎原うはら八部やたべの五郡である。地形をみると丹波の山地帯に続く山の多い北部の地域、同地域を水源とする猪名いな川・武庫川によって潤される東部の平野地帯、東西に延びる六甲ろつこう山地およびその山麓と南の海との間の狭長な平地からなる南西部の三つに分れる。三つの地域のうち北部地域はほぼ有馬郡全域と川辺郡の北半からなり、うちに武庫川が貫流する三田盆地、猪名川に沿う多田ただ盆地がある。東部地域は川辺郡の南半と武庫郡の大半からなり、猪名・武庫の両川の力で早く文化の開けた地域である。南西部は武庫郡の西部と兎原・八部両郡とからなり、六甲山地が海に迫るために平地は少ないが、武庫泊、大輪田おおわだ(現神戸市兵庫区、以下神戸市の場合は区名のみ記す)などの良港に恵まれ、また畿内と西国とを結ぶ陸路が通じ、水陸交通の要地として栄えた。ただ六甲山地と山麓地帯には断層が多く、この地域が平成七年(一九九五)に大地震に襲われたことは記憶に新しい。このような複雑な地形からなるのが西摂五郡である。気候は東部と南西部は温暖な瀬戸内海型の気候帯に属し、とくに六甲山地の南側は陽光に富み、居住に適した土地として知られている。

古代

現大阪府に属する地域を含めて摂津国はもとは河内国の一部であって、六―七世紀に河内国から分離したものと思われる。国名は摂津国と書くが、のちまで「つのくに」と読まれることからすると、初めは「津国」(「日本書紀」舒明天皇三年九月条)であろう。難波なにわ津・住吉すみよし(現大阪市)、大輪田津などの良港を有することから津国の名が生じ、のち国司(令制では摂津職)が津の管理に当たったので摂津国と称することになったのであろう。

〔古墳時代の古墳と豪族〕

古墳時代に先立つ弥生時代に当地域に文化が発達していたことは、六甲山地の東と南から三〇個に近い銅鐸が出土していることでも明らかである。銅剣や銅戈も数ヵ所で発見された。古墳時代に入ると前期の古墳では万籟山ばんらいさん古墳・安倉高塚あくらたかつか古墳(宝塚市)阿保親王塚あぼしんのうづか古墳(芦屋市)、ヘボソづか古墳(東灘区)会下山二本松えげやまにほんまつ古墳(兵庫区)などがあるが、なかでも安倉高塚古墳は中国三国時代の呉の赤烏七年(二四四)銘のある平縁四神獣鏡を副葬していた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「摂津国」の意味・わかりやすい解説

摂津国
せっつのくに

大阪府北西部と兵庫県南東部の旧国名。五畿内(きない)の一つ。東は山城(やましろ)国と河内(かわち)国、西は播磨(はりま)国、北は丹波(たんば)国に接し、南は和泉(いずみ)国に接するほか大阪湾に臨む。古くは河内国に含まれ、難波津(なにわのつ)、武庫泊(むこのとまり)などの港津(こうしん)に恵まれて津国(つのくに)ともよばれた。仁徳(にんとく)朝に難波高津宮(たかつのみや)、645年(大化1)に難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)、744年(天平16)に難波宮が造営され、三たび帝都の所在地となる。この間、国郡里制の整備とともに摂津職(しき)が置かれた。677年(天武天皇6)丹比公麻呂(たじひのきみまろ)が摂津職大夫(かみ)となったのが初見。793年(延暦12)難波宮の廃止とともに摂津職も廃止されて、正式に摂津国となる。国府所在地は不明な点が多いが、のち現在の大阪市天満(てんま)橋付近に移されたらしい。国分寺も明確でなく、天王寺区国分町の国分寺、東淀川(よどがわ)区柴島(くにじま)2丁目の法華寺、あるいは北区国分寺2丁目の国分寺を国分寺、国分尼寺の後身と伝える。『延喜式(えんぎしき)』には住吉(すみよし)、百済(くだら)、東生(ひんかしなり)(のち東成(ひがしなり))、西成(にしなり)、島上(しまのかみ)、島下(しまのしも)、豊島(としま)、能勢(のせ)、河辺(かわのへ)、有馬(ありま)、武庫、菟原(うはら)、八部(やたべ)の13郡がみえるが、百済郡は平安末期に実態を失って、住吉、東成両郡に併合されたと考えられる。平安時代には荘園(しょうえん)が乱立したが、前摂津国司源満仲(みつなか)は、在任中に豊島(てしま)郡多田(ただ)荘に本拠を構え、武士団を結成して清和(せいわ)源氏の勢力伸張の転機をつくり、平氏の全盛時には平清盛(きよもり)が大輪田(おおわだ)泊(神戸港)の経営に努め、武庫郡福原(神戸市兵庫区)に離宮を造営した。

 鎌倉幕府成立後は地頭(じとう)の荘園侵犯が著しく、後鳥羽上皇寵愛(ごとばちょうあい)の白拍子(しらびょうし)亀菊の所領、長江(ながえ)・椋橋(くらはし)両荘を押領(おうりょう)した地頭の罷免問題から、上皇と幕府が対立して承久(じょうきゅう)の乱が起こったという。やがて幕府の統制が乱れると悪党が国内に横行、1315年(正和4)には兵庫関に乱入して守護使と一戦を交えている。南北朝時代には京都を制する軍事上の要地として争奪の的となり、豊島(てしま)河原、湊川(みなとがわ)、阿倍野(あべの)などで合戦が繰り返され、ついで室町時代には両細川(ほそかわ)の内乱に本願寺が介入して、戦国の様相を呈した。本願寺は1532年(天文1)大坂石山に寺基を移して寺内(じない)町を形成、防備を固めて石山本願寺城とよばれたが、織田信長との石山合戦で敗れた。信長没後大坂を手中にした豊臣(とよとみ)秀吉は、石山本願寺寺内町の跡地を広げて大坂城を築き城下町を建設。豊臣氏滅亡ののち、江戸幕府は大坂を直轄地とし、摂津国内に麻田、高槻(たかつき)、尼崎(あまがさき)、三田(さんだ)の四小藩を置いたほか、多くの大名・旗本に分封し、宮家、堂上(とうしょう)家、社寺などの所領と複雑な入組支配をさせて幕末に至る。

 1871年(明治4)廃藩置県により、4藩はそれぞれ県になり、麻田県・高槻県は大阪府、尼崎県・三田県は兵庫県に編入された。なお96年には新郡区を編制し、東成・住吉両郡を合して東成郡、島上・島下の2郡をもって三島(みしま)郡、豊島・能勢両郡をあわせて豊能(とよの)郡とし、菟原・八部の2郡を武庫郡に編入して7郡とした。西成・東成・三島・豊能の4郡は大阪府、川辺(かわべ)・有馬・武庫3郡は兵庫県に属し、いま大阪府下に大阪・豊中・池田・箕面(みのお)・高槻・吹田(すいた)・茨木(いばらき)・摂津の8市と豊能・三島の2郡、兵庫県下に神戸・尼崎・西宮(にしのみや)・芦屋(あしや)・伊丹(いたみ)・宝塚・川西(かわにし)・三田の8市と川辺郡がある。

 産物では、近世に酒と木綿と菜種(なたね)が著名で、伊丹・池田・西宮・灘(なだ)の酒、川崎嶋(しま)木綿・勝間(こつま)木綿、津村木綿織帯および足袋(たび)などは全国各地に出荷された。また池田の植木や炭、北摂(高槻・茨木市)の寒天、武庫の御影石(みかげいし)なども知られた。

[藤本 篤]


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藩名・旧国名がわかる事典 「摂津国」の解説

せっつのくに【摂津国】

現在の大阪府の北西・南西部と兵庫県の東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を形成する5国の一つ。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)。国府と国分寺はともに現在の大阪市におかれていた。難波津(なにわのつ)、武庫泊(むこのとまり)などの港に恵まれ、古くから西国や大陸との交通の要衝で、難波宮(難波京)や外国使節の接待のための鴻臚館(こうろかん)が設けられ、摂津職が統轄した。都に近いため荘園(しょうえん)も発達、とくに皇室領、摂関家(せっかんけ)領、権門(けんもん)寺社領が集中していた。平清盛(たいらのきよもり)も大輪田泊(おおわだのとまり)(現神戸港)を経営し、福原に一時遷都した(福原遷都)。鎌倉時代は長沼氏、安達(あだち)氏、北条(ほうじょう)氏守護となり、南北朝時代は両派の争奪戦が絶えなかった。室町時代には赤松氏細川氏が守護となった。後期には浄土真宗(一向宗)の石山本願寺勢力が強まり、織田信長(おだのぶなが)と対立、10年間の戦いののち、石山本願寺が敗れた。信長の後を継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)は石山本願寺跡に大坂城を築き、天下を支配した。江戸時代は大坂城代のほか4藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により、大阪府と兵庫県に分かれて編入された。◇摂州(せっしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「摂津国」の意味・わかりやすい解説

摂津国
せっつのくに

現在の大阪府北西部と兵庫県南東部。畿内の一国。上国。『古事記』『日本書紀』には,「津国」とある。国名は難波津 (なにわつ) ,武庫津 (むこつ。務古津とも) などの良港があったことに由来する。聖武天皇の造営に成る難波京は現在の大阪市中央区で,近時の発掘によるとここに天武天皇の難波宮,孝徳天皇の長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) もあったらしい。摂津には外国使節の迎賓館があったため,律令制下,特に摂津職がおかれ職員として大夫,亮以下があり京官と等しく扱われた。国府は大阪市中央区におかれ,国分寺は大阪市天王寺区におかれたとする説と北区の2説がある。『延喜式』には,住吉,百済,東生,西成,嶋上,嶋下,豊嶋,河辺,武庫,有馬,菟原,八部,能勢の 13郡があり,『和名抄』には郷 78,田1万 2525町を載せている。平安時代中期には摂津国司であった源満仲が川辺郡多田に居を構え,のちに清和源氏の根拠地となった。平清盛が大輪田泊 (神戸) に港を経営し,さらに福原に遷都したこともあった。鎌倉時代には北条氏が,室町時代には細川氏が守護となった。室町時代末期には交通の要地となるとともに,石山本願寺の門前町として大坂が興り,豊臣秀吉が大坂城を築いてのちは商業の中心地として繁栄した。江戸時代には大坂城代がおかれ天領が多かったが,その他,尼崎,高槻,三田,麻田の4藩がおかれた。明治4 (1871) 年廃藩置県により4藩はそれぞれ県となり,さらに高槻,麻田の2県は大阪府に,尼崎,三田の2県は兵庫県となった。

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百科事典マイペディア 「摂津国」の意味・わかりやすい解説

摂津国【せっつのくに】

旧国名。摂州とも。畿内の一国。現在の大阪府北部と兵庫県の一部。古くは津の国。難波(なにわ)(浪速)津があり,畿内と西国の交通の要地。律令制で特別行政区として摂津職(しき)の管理下に置かれた。793年,職を廃し国とする。《延喜式》に上国,13郡。中世,北条・赤松・細川氏らが支配。近世,尼崎・三田(さんだ)・高槻(たかつき)・麻田の4藩が置かれ,前2者が兵庫県域,後2者が大阪府域にあった。→難波宮大坂城高槻藩尼崎藩
→関連項目生田川伝説大阪[府]近畿地方垂水荘兵庫[県]湊川の戦

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「摂津国」の解説

摂津国
せっつのくに

畿内の国。現在の大阪府北部と兵庫県東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では住吉・百済(くだら)・東成(ひんがしなり)・西成(にしなり)・島上(しまのかみ)・島下・豊島(てしま)・能勢(のせ)・河辺(かわのべ)・武庫(むこ)・兎原(うはら)・八部(やたべ)・有馬の13郡からなる。国府は難波京内にあったらしいが,805年(延暦24)江頭に移り,844年(承和11)鴻臚館(こうろかん)が転用された。国分寺は東成郡(現,大阪市東部)におかれた。一宮は住吉大社(現,大阪市住吉区)。「和名抄」所載田数は1万2525町余。「延喜式」では調は銭のほか薦・櫃・笥・坏など。古代には難波津・難波宮を中心に政治経済上の要地で,令制では摂津職がおかれ津国(摂津国)を管した。793年(延暦12)摂津職が廃され,国司の管下におかれた。西日本の物資流通路の要衝であるため,南北朝期以降,当地の支配権をめぐり混乱が続いた。16世紀に石山本願寺と寺内町が発達。のち豊臣秀吉が大坂城を建設した。江戸時代は幕領として大坂城代・大坂町奉行がおかれ,高槻藩などの藩領,旗本領,他国大名領,公家領,寺社領が入り組んでいる。明治初年の動きは複雑であったが,1871年(明治4)川辺・武庫・菟原・有馬4郡が兵庫県,残りの郡が大阪府に属した。

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世界大百科事典 第2版 「摂津国」の意味・わかりやすい解説

せっつのくに【摂津国】

旧国名。摂州。現在の大阪府の北西・南西部および兵庫県の東部の地域にあたる。
【古代】
 畿内に属する上国(《延喜式》)。管轄下の郡として《延喜式》によると住吉,百済,東生(ひがしなり)(後に東成),西成,島上,島下,豊島(てしま),川辺,武庫(むこ),兎原(うはら),八部(やたべ),有馬,能勢の13郡を数え,このうち能勢郡は713年(和銅6)に川辺郡から分立した郡である。また八部郡は8世紀には雄伴(おとも)郡の名で呼ばれていた。

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世界大百科事典内の摂津国の言及

【難波津】より

…現在の大阪市中央区三津寺町付近に比定される。摂津国という名はこの津に由来し,摂津職という官職によって管理された。遣唐使などの使節がここから出帆し,また外国からの使いもこの港に到来した。…

※「摂津国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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