摂津の地域は、現在おおむね
摂津国の「摂津」は、難波津を管理するという意味であるから、この国は大化以前からの山や川などの自然的条件や、有力豪族の勢力範囲といった歴史的条件に基づく地域区分によるのではなく、難波津を重視する律令国家の必要によって造られた国と考えられる。したがって律令政府による設定までは、摂津国の主要な部分は、河内の地域の一部とみなされていたであろう。「古事記」にのちの令制国の大和・河内・
旧石器から弥生時代までの摂津地域の歴史については総論で触れた。古墳時代前期の古墳の主要なものは、
現兵庫県の南東端に位置する。北は丹波国、東は山城国、東から南は河内国、南東は和泉国、西は播磨国に接し、南は瀬戸内海に面する。摂津国は一三郡よりなるが、兵庫県域に含まれるのはその南西部分、すなわち
現大阪府に属する地域を含めて摂津国はもとは河内国の一部であって、六―七世紀に河内国から分離したものと思われる。国名は摂津国と書くが、のちまで「つのくに」と読まれることからすると、初めは「津国」(「日本書紀」舒明天皇三年九月条)であろう。
古墳時代に先立つ弥生時代に当地域に文化が発達していたことは、六甲山地の東と南から三〇個に近い銅鐸が出土していることでも明らかである。銅剣や銅戈も数ヵ所で発見された。古墳時代に入ると前期の古墳では
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。摂州。現在の大阪府の北西・南西部および兵庫県の東部の地域にあたる。
畿内に属する上国(《延喜式》)。管轄下の郡として《延喜式》によると住吉,百済,東生(ひがしなり)(後に東成),西成,島上,島下,豊島(てしま),川辺,武庫(むこ),兎原(うはら),八部(やたべ),有馬,能勢の13郡を数え,このうち能勢郡は713年(和銅6)に川辺郡から分立した郡である。また八部郡は8世紀には雄伴(おとも)郡の名で呼ばれていた。《律書残篇》(721-737の間に成立)は摂津国の郡を12郡と記すが,これは百済郡が734年(天平6)以後に成立したためとみられている。摂津国は大宝令制では特別行政区として摂津職(せつつしき)の管理下にあり,この官司の長官である大夫(たいふ)の職掌には,一般の国守の職掌にはみえない,港湾や船舶の管理また交易に関係して市場や度量衡の監督が規定されている。これは大化前代からの重要な港として難波津が存在し,朝鮮半島や中国大陸との外交事務や,難波市における交易に関係していたことによる。摂津国,津国の名称も難波津,武庫津の管理という意味からの呼称であり,その名称の成立は,半島や大陸との関係また国家支配の整備状況から推すと,6世紀以後と考えられる。摂津職の上級官人には皇親が比較的多く,また詩文の才や教養を持ち海外事情に明るい人物が多く任命され,中下級官人には陸上・水上の関所や港湾事務に練達している者が多かった。この摂津職は793年(延暦12)に廃され,以後一般の国と同格の摂津国となった。その理由として難波宮の廃止がいわれているが,784年の長岡遷都,794年の平安遷都と関係し,難波津や難波市の機能の低下,また防人(さきもり)制の廃止も影響を与えていよう。国府は摂津職当時の役所をそのまま使用したと考えられ,西成郡内に置かれ,その現在地を大阪市内長堀,道頓堀付近とする説があるが未詳。805年に江頭に移され,その現在地は大阪市天満橋付近とされている。825年(天長2)川辺郡の為奈野(いなの)に移転の計画が立てられたがほどなく中止され,835年(承和2)にもこの計画が再燃したが,農民の生活安定の見地から結局中止となった。
摂津国の北部,西部は山地で,ここに源を発する猪名(いな)川,武庫川は西摂の平地を南流して大阪湾に注ぐ。南東部は大阪平野の一部をなす平地で,淀川がその北部を南西に貫流し,南部を北流する大和川(18世紀に改修)を合わせて大阪湾に注いでいた。これら諸川の下流の扇状地には豊沃な土地が形成されていたため,早くから農耕が発達して良質な水田が多く,大化前代すでに三島県(みしまのあがた),猪名県や竹村屯倉(たけふのみやけ)など大和朝廷の直轄領が設置されたが,8世紀以後も中央貴族の位田,職田(しきでん)などが多く設けられた。9世紀に入ると勅旨田(ちよくしでん)や親王賜田,さらに中央諸官司の経費に充てるための諸司田が多く設定される一方,有力寺社や貴族の荘園も多数設置されるに至った。
執筆者:亀田 隆之
平安時代のはじめ以来,政治面での摂津の特質は失われたが,交通・経済の面ではその後も長く重要な役割をもち続け,平安期から中世にかけて港津,荘園の発達をみた。兵庫津などの各港津は物資輸送の通航船の増加とともに栄え,後には関,問丸(といまる)が設けられて,関銭が課せられることもあった。
荘園は,奈良~平安初期に成立した東大寺領猪名荘,東寺領垂水(たるみ)荘,醍醐寺領吹田(すいた)荘などの初期荘園のほか,平安中期以降に著しく発達し,権力者に集中した。それは,農民・土豪が国衙への年貢雑役をのがれるため田畠を権力者に寄進し,みずから権門寺社の寄人(よりうど),供御人(くごにん),舎人(とねり),神人(じにん),散所(さんじよ)などになる傾向をとったからである。とくに摂関家に集まった摂津の荘園は24ヵ所に及び,うち椋橋東(くらはしひがし)荘など13ヵ所が関白藤原頼通領,大原荘など4ヵ所が高陽院(かやのいん)領,福井・八多荘などが冷泉宮領である。また皇室領も平安末期に女院や御願寺への寄進で増加し,うち水無瀬(みなせ)殿など6ヵ所が七条院領,淡路荘など8ヵ所が八条院領,生魂新(いくたましん)荘・福島荘などは浄金剛院領である。さらに従来からの東大寺領,石清水領などの寺社領も多く,そのほか福原荘,小平野荘,井門荘などが,福原に一時遷都した平氏の所領であった。
こうして奈良~平安末期にみられた摂津の荘園は110余に及び,他国に例をみないほど多い。それは,農民や土豪の上述の動きに応じて,権門寺社が交通・経済の要地で,しかも都に近い摂津に経済的基盤をもとうと努めたからであろう。これら多数の荘園はそれぞれ領主に年貢雑役を納め,その経済的基盤として存続したが,鎌倉末期の悪党や南北朝の内乱,武士の侵略などによって動揺し,その一部が消滅した。しかし鎌倉中・後期以降,新たに味舌(ました)荘・新屋(にいや)荘などの興福寺領,宮原荘など5ヵ荘の春日社領,加島荘など7ヵ荘に及ぶ石清水領などが成立し,全体としてかなり多くの荘園が室町~戦国期まで存続した。
このように多くの荘園が遅くまで存続したのは,荘園領主の政治的・宗教的権威とあいまって,供御人・舎人・神人などを中心とする荘民が,武士・土豪の侵略を極力防止したからである。そのため,在地の武士や幕府の設置した守護地頭は,有力な封建的勢力に成長することが困難であり,そこに摂津の特質があった。在地の武士では,すでに早く970年(天禄1)河辺郡多田に多田院を建立し,そこを根拠とした源満仲の子孫が摂津源氏として有名で,そのうちには平安末期に活躍した多田氏,鎌倉~室町期に活躍した能勢,溝杭(みぞくい),田尻らの諸氏がみられる。そのほか真上,土室,三宅,榎坂,豊島,宿久(しゆく),吹田,茨木,池田らの土豪が活躍している。しかし,いずれも有力な封建領主にはなりえなかった。
摂津の守護には承久の乱後,長沼,安達,野本,北条らの諸氏がみられ,1315年(正和4)以降は六波羅北方が兼帯した。南北朝期以降には赤松,仁木,細川の諸氏があいついで守護となり,1397年(応永4)以降は管領細川氏の一族が守護職を世襲して,摂津は細川氏の領国となった。応仁の乱後,幕府の実権を独占した細川政元が死ぬと,その養子澄元,高国の対立で細川家は分裂し,摂津の支配は幕府の実権とともに,抗争の中で澄元から高国へ移ったが,その後1526年(大永6)の反高国派の蜂起により,高国から澄元の子晴元に移行した。晴元は28年(享禄1)から4年間ほど堺に幕府を開き,足利義維を戴いて茨木長隆を管領代とし,その後,根拠地を33年(天文2)芥河へ,ついで京都へ移したが,49年の江口合戦で,高国の養子氏綱,三好長慶らのため敗退し,実権は三好氏に移った。その後,尾張から上洛した織田信長は三好,松永氏や摂津の国衆を平定して,和田惟政,池田勝正,荒木村重らに支配させ,さきに蓮如の創建した石山御坊によって反抗する一向衆徒と戦い続け,80年(天正8)に講和した(石山本願寺一揆)。
執筆者:宮川 満
織田信長は反逆した摂津の大名荒木村重を制圧し,石山本願寺と講和した後,1580年(天正8)大坂,兵庫,伊丹を含む〈摂津一国諸所多く〉を池田恒興父子に与えた。しかし本能寺の変(1582)後,信長の後継者たる地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉は83年池田父子を美濃に移して大坂を手にし,石山本願寺の旧地に大坂城を築いて居城とした。85年東横堀川,98年(慶長3)天満川を掘削し,伏見,堺の町人を移住させて大坂城下町の形成を進めている。関ヶ原の戦(1600)のあと徳川家康が征夷大将軍の宣下(1603)をうけて,豊臣秀頼はもはや65万石の一大名にすぎなくなったが,なお引きつづき大坂に在城していた。この関係で,幕府が慶長年間に手中にした摂津の領域は,川辺郡南部を除いては大坂から遠い北摂,西摂地域にあるにとどまった。
大坂冬・夏の陣(1614,15)で家康は豊臣氏を滅ぼし,摂津の所領配置の上でも豊臣氏にとって代わった。大坂落城の直後,外孫松平忠明を大坂城に入れ(10万石),大坂の戦災復興,新しい町づくりにとりかからせた。ついで内藤信正を高槻に入れ(4万石),翌16年(元和2)には忠明の婿稲葉紀通を中島に封じた(4万5700石)。ついで17年には戸田氏鉄(うじかね)を尼崎(5万石)に,そして播磨には,小笠原忠真を明石に,本多忠政を姫路に,同政朝を竜野に入れ,大坂の西方摂津,播磨を譜代大名で固める方策を進めた。さらに17年に尼崎築城,高槻城修築,18年に播磨明石築城,姫路城西ノ丸諸櫓の構築を命じて,大坂の守りの一翼とした。ついで19年には松平忠明を大和郡山に移して大坂を幕府の直轄領としたあと,いよいよ中国・四国・九州の大名に命じて10年の歳月をかけた大坂城の再建にかからせる。こうして大坂は西日本の諸大名に対する幕府の軍事的拠点となった。19年伏見城代内藤信正を直領となった大坂に移して大坂城代制が創始され,23年には大坂定番制が制度化された。大坂城代は定番,加番をひきいて城中を警衛し,大坂東西町奉行,堺奉行を監督して町つづきを管轄すること,摂・河・泉・播の直領の徴租と訴訟,裁判をあつかい,さらに西日本の大名を監視することを任とした。
大坂城代,定番制をしいたあと,幕府は17世紀中ごろには摂津そして大坂周辺の所領配置を大坂中心に整えている。概括的にいえば,大坂城に近接した半径10km以内の東成・西成・住吉3郡はおおむね直領で固め,その周縁とくに大坂から西へ淀川を渡った川辺・豊島郡に旗本の知行地をおいた。さらにその外方10~20kmの圏内に大坂城代領や定番大名領,地元尼崎藩領を配置した。大坂城代阿部正次に1626年(寛永3)摂津4郡のうちで3万石を加増し,48年(慶安1)に定番大名保科正貞,内藤信広にそれぞれ摂津で1万石を加増したが,これを初例として,以後10~20km圏内,島上・島下・豊島・川辺の諸郡には歴代大坂城代以下の大坂関係役職大名の飛地を配したのである。この20km圏の外には外様小藩三田藩を配することもみられた。かようにして畿内の中枢部大坂城のまわり20km圏内には,幕府直領のほか旗本の知行地,役職譜代大名の飛地,地元譜代大名の所領が配され譜代勢力で固められた。城代領はおおむね任期の間だけ与えられたから,大名領といっても幕府直領にひとしかった。だからこの圏内,摂津の過半は,全体として幕府の大領国となったといってよい。
さて豊臣時代につづき,大坂では1600年(慶長5)に阿波堀川が,またそのころ西横堀川が掘られた。元和・寛永期(1615-1644)には道頓堀川,京町堀川,江戸堀川,海部堀(かいふぼり)川ほかが掘られ,100余の橋で結ばれる大都市としての基礎が固まった。町は元和ごろ北組と南組に分かれ,承応(1652-55)ごろに天満組ができて,大坂三郷と総称されるようになった。三郷の町人人口は18世紀中ごろ40万を越えた。貢租米その他の蔵物を積み登す諸藩は大坂中ノ島,土佐堀川,江戸堀川の川筋に蔵屋敷をおいた。その数は明暦年間(1655-58)25,元禄(1688-1704)のころ95,天保年間(1830-44)125を数えた。蔵物だけでなく各地から登される農民的商品を集散する市場として,堂島の米市場,天満の青物市場,雑喉場(ざこば)の魚市場,永代浜の塩魚・干鰯(ほしか)の取引などが生まれた。
大坂における商品流通の盛大は摂津の農業,加工業を刺激した。17世紀には綿・タバコ,18世紀には菜種の商業的農業が他地方に先んじて進み,有利に展開した。このため摂津では綿・菜種・米の3作物の組合せによって,全国でも珍しく農業によってブルジョア的発展を実現する〈摂津型〉の農業経営の展開をみた。武庫郡上瓦林村岡本家(尼崎藩大庄屋)のように,1792年(寛政4),7町3反3畝もの田を短年季奉公人や日傭をつかって自作する富農経営も現れた。また中央市場の中にあっての加工業として,摂津では他国の原料をも買い入れ,生産品を他国に売り出す大規模な加工業が展開した。伊丹・池田・富田・西宮の酒造業,天王寺・古妻・池田などの木綿織,大坂島之内の絞り油業など17世紀の加工業は,まず大坂市中や摂津,河内の在郷町において展開したが,18世紀になると需要の増大により加工業は農村部にまで広がりをみせた。灘五郷の酒・絞り油業がその例である。さらに17世紀の綿作の展開は干鰯の需要を高め,大坂湾での漁法を発展させた。そればかりか,その技術をもって摂津や紀伊の漁民が房総や西中国・九州に進出し,その地で大量の漁獲をあげ,干鰯を増産し,それを大坂,西宮,兵庫に積み登す流通を呼び起こした。
1769年(明和6)幕府が尼崎藩領兵庫,西宮を含む灘地方の私領を公収して直領とするにいたったが,これは西摂地方の農業,加工業の発展が幕府の目にとまるほどのものとなっていたことを如実に示している。この明和の公収は,大坂城の西の守りの尼崎城を裸城にする暴挙であり,決して幕府の利益にならないと,幕吏の中から反対の建白が出たほどで,事実尼崎藩は大きな打撃をうけ,決定的な財政窮乏におちいった。1843年(天保14)幕府はさらに江戸・大坂周辺私領の公収をはかった。この天保上知令はまもなく撤回を余儀なくされ,行きづまりを露呈するものとなった。
これより先37年には大塩の乱が起きた。幕府の中枢直領大坂で,しかも幕吏によってなされた体制批判であった。一方18世紀中ごろから中央市場の流通を独占掌握する株仲間の商人や加工業者に対して,綿・菜種の買いたたき,干鰯値段のつり上げをやめさせようとする農民の闘いが展開した。それはさらに株仲間機構そのものを否定しようとする,数百ヵ村,千数百ヵ村が結集した闘いに高揚していった。他の地方にみられない摂・河・泉特有の合法的陳情闘争=国訴の展開である。地元でのこの国訴の抵抗に加えて,18世紀後半以降の西日本における商品生産の発展,それを対象とする藩の専売制と藩営加工業の展開があった。これによって中央市場を経由しない藩際貿易が進展し,文化・文政期(1804-30)には,大坂市場に登されるあらゆる商品について回着量が半減する事態となった。経済的にも中央市場,摂津の相対的地位の低下,幕藩体制の動揺が現れたといえる。
1854年(安政1)ロシア軍艦ディアナ号が摂海(大阪湾)に侵入した。これを機に幕府は摂海防備のために海辺20ヵ所に砲台を築き,沿海諸藩には独自に自領に砲台を築かせた。やがてペリーの来航で幕府は鎖国政策の放棄を余儀なくされ,58年の日米修好通商条約にもとづき文久年間(1861-64)には兵庫開港も迫られた。その開港は5ヵ年延期されて68年1月1日(慶応3年12月7日,大坂開市も同日)となるが,これより先,開港問題をめぐって尊攘運動の高揚,武力討幕派の決起があり,西宮・大坂で〈ええじゃないか〉が乱舞するさなかの67年10月長州藩兵は西宮から京に入った。鳥羽・伏見の戦で旧幕府軍は敗退し,大坂城は焼亡した。軍事的拠点としての大坂の時代は終わった。
→大阪[市]
執筆者:八木 哲浩
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大阪府北西部と兵庫県南東部の旧国名。五畿内(きない)の一つ。東は山城(やましろ)国と河内(かわち)国、西は播磨(はりま)国、北は丹波(たんば)国に接し、南は和泉(いずみ)国に接するほか大阪湾に臨む。古くは河内国に含まれ、難波津(なにわのつ)、武庫泊(むこのとまり)などの港津(こうしん)に恵まれて津国(つのくに)ともよばれた。仁徳(にんとく)朝に難波高津宮(たかつのみや)、645年(大化1)に難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)、744年(天平16)に難波宮が造営され、三たび帝都の所在地となる。この間、国郡里制の整備とともに摂津職(しき)が置かれた。677年(天武天皇6)丹比公麻呂(たじひのきみまろ)が摂津職大夫(かみ)となったのが初見。793年(延暦12)難波宮の廃止とともに摂津職も廃止されて、正式に摂津国となる。国府所在地は不明な点が多いが、のち現在の大阪市天満(てんま)橋付近に移されたらしい。国分寺も明確でなく、天王寺区国分町の国分寺、東淀川(よどがわ)区柴島(くにじま)2丁目の法華寺、あるいは北区国分寺2丁目の国分寺を国分寺、国分尼寺の後身と伝える。『延喜式(えんぎしき)』には住吉(すみよし)、百済(くだら)、東生(ひんかしなり)(のち東成(ひがしなり))、西成(にしなり)、島上(しまのかみ)、島下(しまのしも)、豊島(としま)、能勢(のせ)、河辺(かわのへ)、有馬(ありま)、武庫、菟原(うはら)、八部(やたべ)の13郡がみえるが、百済郡は平安末期に実態を失って、住吉、東成両郡に併合されたと考えられる。平安時代には荘園(しょうえん)が乱立したが、前摂津国司源満仲(みつなか)は、在任中に豊島(てしま)郡多田(ただ)荘に本拠を構え、武士団を結成して清和(せいわ)源氏の勢力伸張の転機をつくり、平氏の全盛時には平清盛(きよもり)が大輪田(おおわだ)泊(神戸港)の経営に努め、武庫郡福原(神戸市兵庫区)に離宮を造営した。
鎌倉幕府成立後は地頭(じとう)の荘園侵犯が著しく、後鳥羽上皇寵愛(ごとばちょうあい)の白拍子(しらびょうし)亀菊の所領、長江(ながえ)・椋橋(くらはし)両荘を押領(おうりょう)した地頭の罷免問題から、上皇と幕府が対立して承久(じょうきゅう)の乱が起こったという。やがて幕府の統制が乱れると悪党が国内に横行、1315年(正和4)には兵庫関に乱入して守護使と一戦を交えている。南北朝時代には京都を制する軍事上の要地として争奪の的となり、豊島(てしま)河原、湊川(みなとがわ)、阿倍野(あべの)などで合戦が繰り返され、ついで室町時代には両細川(ほそかわ)の内乱に本願寺が介入して、戦国の様相を呈した。本願寺は1532年(天文1)大坂石山に寺基を移して寺内(じない)町を形成、防備を固めて石山本願寺城とよばれたが、織田信長との石山合戦で敗れた。信長没後大坂を手中にした豊臣(とよとみ)秀吉は、石山本願寺寺内町の跡地を広げて大坂城を築き城下町を建設。豊臣氏滅亡ののち、江戸幕府は大坂を直轄地とし、摂津国内に麻田、高槻(たかつき)、尼崎(あまがさき)、三田(さんだ)の四小藩を置いたほか、多くの大名・旗本に分封し、宮家、堂上(とうしょう)家、社寺などの所領と複雑な入組支配をさせて幕末に至る。
1871年(明治4)廃藩置県により、4藩はそれぞれ県になり、麻田県・高槻県は大阪府、尼崎県・三田県は兵庫県に編入された。なお96年には新郡区を編制し、東成・住吉両郡を合して東成郡、島上・島下の2郡をもって三島(みしま)郡、豊島・能勢両郡をあわせて豊能(とよの)郡とし、菟原・八部の2郡を武庫郡に編入して7郡とした。西成・東成・三島・豊能の4郡は大阪府、川辺(かわべ)・有馬・武庫3郡は兵庫県に属し、いま大阪府下に大阪・豊中・池田・箕面(みのお)・高槻・吹田(すいた)・茨木(いばらき)・摂津の8市と豊能・三島の2郡、兵庫県下に神戸・尼崎・西宮(にしのみや)・芦屋(あしや)・伊丹(いたみ)・宝塚・川西(かわにし)・三田の8市と川辺郡がある。
産物では、近世に酒と木綿と菜種(なたね)が著名で、伊丹・池田・西宮・灘(なだ)の酒、川崎嶋(しま)木綿・勝間(こつま)木綿、津村木綿織帯および足袋(たび)などは全国各地に出荷された。また池田の植木や炭、北摂(高槻・茨木市)の寒天、武庫の御影石(みかげいし)なども知られた。
[藤本 篤]
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畿内の国。現在の大阪府北部と兵庫県東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では住吉・百済(くだら)・東成(ひんがしなり)・西成(にしなり)・島上(しまのかみ)・島下・豊島(てしま)・能勢(のせ)・河辺(かわのべ)・武庫(むこ)・兎原(うはら)・八部(やたべ)・有馬の13郡からなる。国府は難波京内にあったらしいが,805年(延暦24)江頭に移り,844年(承和11)鴻臚館(こうろかん)が転用された。国分寺は東成郡(現,大阪市東部)におかれた。一宮は住吉大社(現,大阪市住吉区)。「和名抄」所載田数は1万2525町余。「延喜式」では調は銭のほか薦・櫃・笥・坏など。古代には難波津・難波宮を中心に政治経済上の要地で,令制では摂津職がおかれ津国(摂津国)を管した。793年(延暦12)摂津職が廃され,国司の管下におかれた。西日本の物資流通路の要衝であるため,南北朝期以降,当地の支配権をめぐり混乱が続いた。16世紀に石山本願寺と寺内町が発達。のち豊臣秀吉が大坂城を建設した。江戸時代は幕領として大坂城代・大坂町奉行がおかれ,高槻藩などの藩領,旗本領,他国大名領,公家領,寺社領が入り組んでいる。明治初年の動きは複雑であったが,1871年(明治4)川辺・武庫・菟原・有馬4郡が兵庫県,残りの郡が大阪府に属した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…現在の大阪市中央区三津寺町付近に比定される。摂津国という名はこの津に由来し,摂津職という官職によって管理された。遣唐使などの使節がここから出帆し,また外国からの使いもこの港に到来した。…
※「摂津国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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