丸山銅山跡
まるやまどうざんあと
[現在地名]美都町山本
匹見川の支流能登川上流右岸を中心とする一帯にあたる。鉱脈は谷底から標高差一五〇メートルに及び、露出するところもあったとみられ、多くの採鉱跡が残る。承和三年(八三六)中央政府は石見国に命じて百姓四人に採鉱術を学ばせ(続日本後紀)、元慶五年(八八一)三月七日には「都茂郷丸山」で銅が採れたとして中央から二人の役人が派遣されているが(三代実録)、当銅山はこれらの記事にかかわるものといわれる。元慶五年の銅鉱発見者は山烏行淵と伝え、寛平年間(八八九―八九八)には坂上寔護・塩満荷夫が監督として美濃郡苓気郷の人夫を連れ、丸山に赴いたといわれる(益田市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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