日本大百科全書(ニッポニカ) 「久留米藩大一揆」の意味・わかりやすい解説
久留米藩大一揆
くるめはんだいいっき
久留米騒動ともいう。筑後(ちくご)国(福岡県)久留米藩内の一揆としては、1728年(享保13)の上(かみ)三郡一揆、1754年(宝暦4)の全藩一揆、1832年(天保3)の竹野(たかの)郡打毀(うちこわし)などがある。このうち、1754年の一揆は、藩の人別銀賦課に端を発し、全藩的規模の大闘争に発展、近世の農民一揆のなかでも典型的な全藩一揆であった。参加者数5万人、多少とも闘争にかかわった農民は16万人に達したといわれ、藩側との武力抗争も行われた。大庄屋(おおじょうや)、庄屋への打毀60余軒に及び、河原での大結集から鎮圧されるまで蜂起(ほうき)は2か月も続いた。その結果、死刑16人という犠牲を出したが、人別銀廃止のほか貢租徴収制度の改善など、領民の要求もかなり実現させた。これは、幕藩制下の階級闘争が村落の規模を越えて質的に転換したことを示した大一揆であった。
[長野 暹]
『鶴久二郎・古賀幸雄編『久留米藩農政・農民史料集』(1969・私家版)』