久留米藩領古図(読み)くるめはんりようこず

日本歴史地名大系 「久留米藩領古図」の解説

久留米藩領古図
くるめはんりようこず

解説 原本写本とも所在不明。幕命に従い久留米藩でも正保元禄・天保の国絵図作製・提出したと考えられるが、そのいずれも残っていない。国絵図については、「米府年表」の正保三年に「此年国郡之絵図を献、前年従公儀此命有、郡奉行・大庄屋中毎日勤之、十軒屋敷順光寺におゐて画師三谷等悦認之」、元禄一〇年に「此年国郡之絵図を調、下妻郡奉行佐藤儀左衛門柳川に趣、家老立花采女に会し、柳川領に合し一紙となす由」とあるが、天保国絵図に関しては記録がない。本絵図の作製時期については、寛文八年に成立した松崎藩の拠点が松崎町に重ねて描かれており、「高壱万石 御原郡之内」と書込まれていること、同藩主有馬豊祐が居館を横隈町から松崎町に移したのは同九年であること、同藩が消滅したのは貞享元年であることの三点から、寛文九年以降貞享元年までに描かれたと推測される。また「元禄記」に、元禄国絵図では「郡同名ニ付村名変候村」が一一ヵ村あり、「今度町ト相極候所々」が八ヵ村あると記されるが、本絵図ではこれらが変更されていないので、元禄期より前に作製されたと確定できる。なお村々の石高(本高、すなわち拝領高)に明らかな記載ミスが認められ、記載落ちの村もあるので、完成された絵図とは考えにくい。

複製福岡県史資料」第三輯付録。「福岡県史」第三巻上付録

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報