久留米藩
くるめはん
筑後(ちくご)国御井(みい)(福岡県久留米市)に置かれた外様(とざま)藩。領主有馬(ありま)氏。豊臣(とよとみ)秀吉は1587年(天正15)の九州知行割(ちぎょうわり)において、毛利秀包(もうりひでかね)をこの地に封じ、筑後の山本・御井・上妻(こうつま)・三潴(みずま)の4郡内に加増を含め13万石を与えたが、関ヶ原の戦いで西軍に加わったため、その所領は没収された。
新たに田中吉政(よしまさ)が筑後32万5000石を領し、1601年(慶長6)柳川(やながわ)に入部、久留米城には三男主膳(しゅぜん)を配した。その後を継いだ忠政(ただまさ)は1620年(元和6)に没したが、無嗣(むし)絶家となり、翌年、丹波(たんば)(京都府)福知山(ふくちやま)から有馬豊氏(とようじ)が久留米に入部、21万石を領した。以後、明治初年まで有馬氏の支配が続く。藩政では1710年(宝永7)地方(じかた)知行制を俸禄(ほうろく)制に改め、これに伴い14年(正徳4)には、徴租体制が春免(はるめん)法(春先に年貢高を定める)に改正された。1720年(享保5)には大洪水のため田畑9458町歩余が荒廃し、多くの困窮者を出した。1728年に夏年貢の制を改めたことに対し、生葉(いくは)・竹野(たかの)・山本の3郡に農民一揆(いっき)が起こった。また、藩財政が困窮したため、家臣に上米(あげまい)を命じ、農民に人別銀や畝掛(うねかけ)銀などの税を課したことから、1754年(宝暦4)に久留米藩大一揆が起こった。このときの藩主は7代頼徸(よりゆき)であった。頼徸は関流(せきりゅう)和算の大家で、『拾璣(しゅうき)算法』5巻の著もある。特産物の久留米絣(がすり)は19世紀初めから織られるようになったが、藩財政の窮乏はなおも続き、藩札の増発や借財が重なり、大坂の米穀取引で1814年(文化11)空米(くうまい)切手騒動を引き起こした。幕末には真木和泉(まきいずみ)ら尊攘(そんじょう)派が台頭したが、11代藩主頼咸(よりしげ)は佐幕的態度をとり、尊攘派は脱藩。明治初年の改革では水野正名(まさな)ら維新政府に連なる人々が藩政を掌握した。1871年(明治4)廃藩、久留米県、三潴県を経て、76年8月福岡県に編入。
[長野 暹]
『『久留米市史 第2巻』(1958・久留米市)』
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久留米藩 (くるめはん)
筑後国(福岡県)御井郡久留米に藩庁を置いた外様大藩。藩主有馬氏。21万石。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐ののち,毛利氏の一族毛利秀包(ひでかね)が配置されたことに始まる。石高は7万5000石。93年(文禄2)5万5000石加増され13万石となった。しかし,秀包は関ヶ原の戦において西軍に味方したため改易となり,代わって1600年(慶長5)三河岡崎から田中吉政が入封し筑後一国を支配した。石高は32万5000石。吉政は立花宗茂の旧柳河城を居城とし,久留米の篠山城,福島城を支城として次・三男を配置したが,2代忠政は20年(元和6)世嗣断絶によって改易となり,代わって丹波福知山から有馬豊氏が入封し筑後上8郡21万石を領有した。有馬氏の入封以降,久留米藩は大名領主が定着し,豊氏以降11代を経て廃藩をむかえた。有馬氏は久留米篠山城の拡張・整備と城下町の建設を行う一方,田中時代に引き続いて筑後川の治水工事を推進し,用水設備を整えた。久留米藩においては,初代豊氏の死後,藩政は老臣に一任されていたが,1706年(宝永3)襲封した6代則維(のりふさ)は,地方(じかた)知行を蔵米支給に切り替える一方,藩政中枢機構を改革し,11年(正徳1)には藩主親政を宣言して独裁専制体制を確立し,14年には春免制を採用した。ところが,28年(享保13)における夏物成の引上げを契機に百姓一揆が勃発。54年(宝暦4)には人別銀徴収に対する反対一揆が再び勃発して,藩権力による年貢増徴策は後退した。こうした財政状態のなかで,久留米藩は銀札を乱発し,大坂蔵屋敷における調達切手の乱発と相まって,かえって財政窮乏を増大した。10代頼永(よりとう)は天保学派の支持を得て藩政改革に着手した。1846年(弘化3)弟の頼咸(よりしげ)が11代藩主に就任すると,天保学派は分裂し,藩主廃立の是非をめぐって激しく対立しながら明治維新をむかえた(久留米騒動)。71年(明治4)廃藩置県により久留米県,のち三瀦(みづま)県を経て福岡県に編入。
執筆者:藤野 保
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くるめはん【久留米藩】
江戸時代、筑後(ちくご)国御井(みい)郡久留米(現、福岡県久留米市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明善堂など。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後、毛利(もうり)氏に代わって田中吉政(よしまさ)が筑後1国32万5000石を与えられて入封(にゅうほう)、久留米城には城代がおかれた。田中氏は2代で嗣子(しし)がなく改易(かいえき)され、20年(元和(げんな)6)、有馬豊氏(とようじ)が丹波(たんば)国 福知山藩から21万石で入封、立藩した。以後明治維新まで有馬氏が11代続いた。久留米城の改修や城下町の整備、筑後川の治水工事などを進めたが、そのための出費が藩財政を圧迫。6代則維(のりふさ)は1710年(宝永7)に地方(じかた)知行制から蔵米支給による俸禄制に切り替えるなどの藩政改革を行った。しかし、数学者としても知られる7代頼徸(よりゆき)のときには、享保の飢饉により再び財政が悪化した。戊辰(ぼしん)戦争の際には、倒幕に転じて乗り切った。特産品では久留米絣(がすり)が有名。1871年(明治4)の廃藩置県で久留米県となり、その後、三潴(みづま)県を経て76年福岡県に編入された。
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久留米藩
くるめはん
筑後国久留米(現,福岡県久留米市)を城地とする外様大藩。豊臣秀吉の九州平定後,毛利氏の一族毛利秀包(ひでかね)領。関ケ原の戦後,柳河城主田中吉政の所領の一部となった。同氏の無嗣断絶による改易後,1620年(元和6)丹波国福知山藩主有馬豊氏が入封。以後11代にわたる。藩領は筑後国8郡内で21万石。城地は旧領主毛利氏の居城跡を拡張。旧領8万石から大幅な加増となった有馬氏は,石高相応の家臣確保のため田中氏遺臣を多く召し抱えた。2代忠頼から4代頼元の頃,治水施設が整備され生産高が増加したが,春免(はるめん)制導入など一連の増徴策に対し,1728年(享保13)と54年(宝暦4)には大規模な百姓一揆がおこった(久留米一揆)。7代頼徸(よりゆき)は関流数学書「拾璣(しゅうき)算法」を著す。詰席は大広間。藩校明善堂。一時支藩松崎藩があった。廃藩後は久留米県となる。
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久留米藩【くるめはん】
筑後(ちくご)国久留米に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は田中氏の後,1620年からは有馬氏が在封。領知高は田中氏時代32万5000石,有馬氏時代は21万石。
→関連項目有馬氏|有馬頼寧|筑後国|天誅組
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久留米藩
筑後国、久留米(現:福岡県久留米市)を本拠地とした外様の大藩。関ヶ原の戦いの後、毛利氏に代わり田中吉政が筑後一国32万5000石を与えられて入封。田中氏はのちに無嗣断絶となり、丹波国から有馬氏が21万石で入封して幕末まで11代にわたり藩主をつとめた。特産の久留米絣が有名。
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久留米藩
くるめはん
江戸時代,筑後国 (福岡県) 御井郡を領有した藩。慶長5 (1600) 年田中氏が 32万 5000石,元和6 (20) 年有馬氏が 21万石で入封,廃藩置県にいたる。外様,江戸城大広間詰。
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世界大百科事典(旧版)内の久留米藩の言及
【久留米騒動】より
…幕末久留米藩における藩内闘争。1844年(弘化1)久留米藩10代藩主となった有馬頼永(よりとう)は,水戸学の影響をうけた村上守太郎ら天保学派の支持を得て藩政改革に着手,大倹令を発し軍制改革を断行したが,わずか2年にして急逝し,藩政改革は挫折した。…
【筑後国】より
…筑後の旧国人・土豪はその一部が新領主の家臣となったほかは帰農させられ,すでにその勢力は解体されていたが,この間,1595年(文禄4)の秀吉の腹心の部将山口玄蕃正弘による検地および1608年に始まった田中氏の検地等を通じて,近世的農村が生み出された。田中氏断絶後は丹波国福知山の有馬豊氏が北部8郡21万石を与えられて久留米に入り([久留米藩]),一方,陸奥棚倉にいた立花宗茂が南部2郡11万石を得て柳河に再入部した。21年宗茂の甥の立花種次が三池郡の内に1万石を分与されて三池藩を立て,68年(寛文8)には有馬豊範が御原郡に松崎支藩を立てた(1万石,84年に廃止)。…
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