日本歴史地名大系 「久留美庄」の解説 久留美庄くるみのしよう 兵庫県:三木市久留美庄美嚢(みの)川と志染(しじみ)川の合流点付近一帯に展開する中世の庄園で、現久留美・跡部(あとべ)・岩宮(いわみや)・平田(ひらた)・平井(ひらい)辺りに比定される。具留美・久留見とも書く。鎌倉時代から南北朝期にかけては九条家領(建武三年八月二四日「左大将家政所注進当知行地目録案」九条家文書)、その後は奈良春日社領(いずれも領家職)で、元亀元年(一五七〇)一一月までは存在が認められる(春日社司祐維記・春日社司祐礒記)。正応六年(一二九三)三月一七日の九条家文庫文書目録(九条家文書)に久留美とみえる。永仁三年(一二九五)七月八日の六波羅御教書案(東大寺文書)によると、久留美庄地頭は大部(おおべ)庄(現小野市)前雑掌垂水繁昌と結託して大部庄に乱入したと訴えられた。そのため当庄地頭に事情を尋ねたが返事がなかったため、七月中に上洛して釈明を求めている。同五年当庄は「のかめの庄」(現加西市)・安田(やすだ)庄内高田(たかだ)郷(現中町)とともに御所(九条家屋敷)の警固を、九月のひと月間担当するように定められている(同年八月日「御所大番役定書案」九条家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by