日本歴史地名大系 「三木市」の解説 三木市みきし 面積:一二〇・一三平方キロ県の中南部に位置し、北は加東(かとう)郡東条(とうじよう)町、北西は小野市、西は加古川市、南西は加古郡稲美(いなみ)町、南は神戸市西区、南東は同市北区、北東は美嚢(みのう)郡吉川(よかわ)町と接する。市域北部を美嚢(みの)川が南西流し、西流してきた小川(おがわ)川や志染(しじみ)川を市域中央部付近で合せながら、さらに西流して西端で加古川に合流する。南東部は標高三〇〇メートルを超す帝釈(たいしやく)山地、南西部は五〇―一〇〇メートルの明美(めいび)丘陵、東半分は美嚢川の本流・支流により分断された五〇―一〇〇の小河谷となっており、溜池を利用した水田が開かれ、酒米山田錦の産地として知られる。神戸電鉄粟生(あお)線が小野市から神戸市方面へと貫通し、市域には三木駅など六駅がある。また三木駅を起点に三木鉄道が美嚢川に沿って西へ向かい、加古川市でJR加古川線に接続する。市内には同駅ほか五駅がある。主要道路としては山陽自動車道が東西に通り、三木東インターチェンジ・三木小野インターチェンジがある。ほかに国道一七五号や主要地方道三木―神戸線・同三木―三田線・県道三木環状線などが縦横に通る。市名は中世の三木庄、近世の三木町の庄名・町名を継承する。〔原始・古代〕旧石器時代・縄文時代の遺跡はほとんど明らかになっていない。弥生時代の遺跡は中期の鳥町(とりまち)遺跡や与呂木(よろき)遺跡などがある。また別所町高木(べつしよちようたかぎ)から磨製石剣、別所町正法寺(べつしよちようしようぼうじ)から銅剣が採集されている。古墳時代前期では愛宕山(あたごやま)古墳があげられるが、調査が不十分で不明な点が多い。後期古墳は小野市域とともに木棺直葬墳地域を形成し、かつては数百基があったと推定される。横穴式石室では近年発掘された扇(おうぎ)ノ坂(さか)古墳は、床面に三列の棺台石が置かれた異例の石室である。律令制の下では美嚢(みなぎ)郡の中央から西半部を占める。現志染町は縮見(しじみ)屯倉が置かれた所と伝える。「日本書紀」顕宗天皇即位前紀によると、安康天皇亡きあとの皇位継承紛争のなか、雄略天皇のために殺された市辺押磐皇子の子億計王・弘計王二人が難を避けて縮見屯倉に逃れ、屯倉の首忍海部造細目の宅に仕えていたが、のちに発見されて弘計が顕宗、億計が仁賢の両天皇となったという。 三木市みきし 2005年10月24日:三木市が美嚢郡吉川町を編入⇒【吉川町】兵庫県:美嚢郡⇒【三木市】兵庫県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三木市」の意味・わかりやすい解説 三木〔市〕みき 兵庫県南東部,加古川の支流美嚢川流域の市。南部は神戸市に接する。1954年三木町と別所村,細川村,口吉川村の 3村が合体して市制。同年志染村を,2005年吉川町を編入。中世末期は別所氏の城下町。近世以降は大工道具を主とした金物の町として知られ,金属製品の事業所が多い。吉川は灘五郷の酒米の産地として有名。1960年代後半から周辺の丘陵地に大規模な住宅団地,別所に工業団地が建設され,ゴルフ場の開発も相次いだ。古社寺が多く,伽耶院の本堂・多宝塔・三坂明神社本殿,東光寺本堂,天津神社本殿,歓喜院聖天堂,稲荷神社本殿はいずれも国の重要文化財に指定されている。神戸電鉄粟生線,国道175号線,428号線,山陽自動車道,中国縦貫自動車道,近畿自動車道敦賀線(舞鶴若狭自動車道)が通る交通の要地。面積 176.51km2。人口 7万5294(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by