日本歴史地名大系 「乙川村」の解説
乙川村
おつかわむら
[現在地名]半田市北大矢知 町・東大矢知 町・南大矢知 町・西大矢知 町・上池 町・横川 町・西生見 町・東生見 町・中生見 町・平地馬場 町・一本木 町・七本木 町・大高 町・美原 町・大伝根 町・新池 町・兀山 町・横松上 町・苗代 町・長根 町・一 ノ草 町・乙川〈一色 町・市場 町・内山 町・太田 町・北側 町・源内林 町・栄 町・新 町・末広 町・高良 町・殿 町・西 ノ宮 町・畑田 町・八幡 町・浜側 町・稗田 町・深田 町・薬師 町・吉野 町・若宮 町〉・乙川町・向山 町・小神 町・大松 町・新居 町・禰宜 町・前田 町・花田 町・平地 町・大池 町・庚申 町・飯森 町・浜田 町・中午 町・高砂 町・中億田 町・東億田 町・西億田 町・日東 町・川田 町・八軒 町・相賀 町・古浜 町・上浜 町
北部は丘陵部で南部は海に面し、東は
「斉民要術」紙背文書(蓬左文庫蔵)のうちの、鎌倉中期の源胤雅申状に
<資料は省略されています>
とあり、英比郷の地頭職が賀貫三条局から惣領職が貞応三年(一二二四)養子民部卿法印能親に、乙河村地頭職が寛喜二年(一二三〇)頃胤雅の祖父下野前司雅宝に分け譲られたが、胤雅は惣領職によって非分に領知されているとして乙河村地頭職の安堵を求めている。これは乙川村が、英比郷の一部であったことを示す。正安(一二九九―一三〇二)頃の「熱田社領国衙方押妨注文案」断簡(猿投神社文書)に「乙河御厨度々厨雑事已下責取御年貢并奪取質物等注文到来」とあり、国衙領乙河村と熱田社領乙河御厨が近接してあったことを物語っている。
乙川村
おつかわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報