貝塚(読み)かいづか

精選版 日本国語大辞典 「貝塚」の意味・読み・例文・類語

かい‐づか かひ‥【貝塚】

[1] 〘名〙 古代人が捨てた貝殻などが堆積した遺跡。日本では縄文時代のものが多く、おおむね当時の海岸線を示す。石器、土器のほか、人骨、獣魚角、骨角牙製品などの資料を残すので研究上重要。介墟(かいきょ)
※風俗画報‐九〇号(1895)漫録「一、貝塚(カヒヅカ)。多量の貝殻積み重なりて広大なる物捨て場の体を成せるもの」
[2] 大阪府の南西部、大阪湾に面する地名。紀州街道に沿い、天文二四年(一五五五)以来、願泉寺(貝塚御坊)の寺内町として発展。江戸時代は櫛(くし)、和泉木綿(いずみもめん)の集散地として知られ、現在は紡績工業都市。昭和一八年(一九四三)市制。

かいづか かひづか【貝塚】

(「かいつか」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「貝塚」の意味・読み・例文・類語

かい‐づか〔かひ‐〕【貝塚】

古代人が捨てた貝殻が層をなして積もった遺跡。日本では縄文時代に属するものが代表的で、貝殻のほかに鳥獣や魚の骨、土器・石器・骨角器などを含み、人骨も発掘されている。
[類語]遺跡遺址旧跡旧址古跡古址史跡名跡遺構城跡城址古戦場廃墟

かいづか【貝塚】[地名]

大阪府南西部の市。大阪湾に面する。願泉寺の寺内町として発展。江戸時代は海運業や和泉櫛製造が、明治以後は紡績業が盛ん。人口9.1万(2010)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「貝塚」の意味・わかりやすい解説

貝塚
かいづか

人が貝殻を捨てた場所をいう。貝殻量の多少や形成時期の新旧を問わない。したがって現代の貝塚もありうる。しかし、文字のない、あるいは生活記録の乏しいころに形成されたものを、とくに貝塚として区別しようとしているのは、直接的には、食料残滓(ざんし)によって狩猟や漁労の体系を、人骨によって埋葬法や形質を知ることができる点などに、遺跡の一型である貝塚の優れた特性を認めるからである。世界の貝塚研究は、デンマークで始まった。ウォルソーWorsaaeは1850年、エデールホーフ貝塚の踏査とハーベルセ貝塚の発掘を実施し、翌年、貝塚は自然の積成ではなく、人間の食物残骸(ざんがい)が集積したものと発表し、これをKjökken möddinger(英語のkitchen midden)と命名した。デンマークの貝塚発掘は、欧米の貝塚の発見や発掘を刺激し、日本にもアメリカ経由で伝えられた。今日、貝塚は世界各地に分布していることが判明している。もっとも、海、河川、湖沼の沿岸に必ず貝塚があるわけではない。貝の多量の生息を促す水域に限られる。ヨーロッパでは、デンマークが中心でバルト海側に多く、ほかにフランスやポルトガルにもある。アメリカ大陸でも、アラスカから南アメリカまで分布している。太平洋西岸でも、ロシア連邦、中国、東南アジアはもとより、樺太(からふと)(サハリン)、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、南太平洋の島々にも分布している。

[堀越正行]

貝塚数

1959年(昭和34)酒詰仲男(さかづめなかお)は、北海道から九州までの貝塚総数を2147(うち縄文時代967)と発表した。しかし、その後も増え続け、総数は約3000、うち縄文貝塚は約1500を上回るとみられる。

[堀越正行]

立地

貝の繁殖を促す、干満差の大きい干潟の発達した地域に貝塚が多い。しかし、貝塚が集落の一角に形成された場合、海に直面した所よりも、当時でも海とは数キロメートル離れた少し奥まった所(海と10キロメートル以上離れた海産貝の貝塚もある)に位置することが多い。それは、魚貝のみで生活していたわけではなく、植物食や狩猟に大きなウェートを置いていたことを物語っている。

[堀越正行]

形状

貝塚の形状は、台地縁(へり)近く、谷頭、舌状(ぜつじょう)台地の先端、尾根状台地の鞍部(あんぶ)など立地する地形条件によって外的に、さらに竪穴(たてあな)住居址(し)などの遺構の覆土、平坦(へいたん)地、緩急斜面などの捨てる場所によって内的に規定されている。その結果、平面形は、地点貝塚、点列貝塚、点列馬蹄形(ばていけい)貝塚、弧状貝塚、馬蹄形貝塚など(ほぼこの順に規模も大きく、貝殻の量も多くなる)に分けられるが、立地や捨て場によって形状がかなり異なる。たとえば、尾根状台地の先端や鞍部型馬蹄形貝塚は東北地方、谷頭斜面型馬蹄形貝塚は古鬼怒(こきぬ)湾沿岸、台地縁辺覆土・平坦地型馬蹄形貝塚は東京湾沿岸に目だつ。

[堀越正行]

性格

貝塚には2通りの解釈がある。一つは、すべて貝塚は居住者の日常的捕食によって形成されたとする考えであり、もう一つは、大貝塚は、これに加えて保存食や交換財としての干し貝加工によって形成されたとする考えである。小池裕子のハマグリの貝殻成長線による採取季節推定(1975)によると、縄文時代のハマグリ採取は、基本的には周年行われていたものの、春季から夏季前半に採取の盛期(60~70%)を迎え、夏季からしだいに減少し始め、秋季後半と冬季の採取は不活発であるという。貝類採取が一定の季節性を帯びていることは、今日の潮干狩とまったく同じである。余分に採取した貝を干し貝に加工していたことは十分予想される。しかし、いかに大貝塚であろうと、貝を主食としていたとは考えられない。

[堀越正行]

貝の種類

日本列島の沿岸には現在約6000種の貝が生息しているといわれているが、全国の貝塚からは、約500種ぐらいしか出土していないという。さらに普通にみかけるのは100種内外で、主体的な貝になると20種前後である。これは、彼らの採貝地が主として潮間帯であることのほか、多量に、容易にとれ、しかもおいしい貝が選択されていることを物語っている。内湾では、マガキ、ハイガイ、ハマグリ、アサリ、シオフキ、外洋砂底では、ダンベイキサゴ、チョウセンハマグリ、岩礁では、スガイ、イボニシ、レイシ、サザエ、カリガネエガイ、イガイ、汽水域ではヤマトシジミ、淡水域では、カワニナ類、シジミ類、タニシ類、イシガイ、ヌマガイ、カワシンジュガイなどが代表的貝種である。

[堀越正行]

その他の遺物

貝塚の土壌は、包含地遺跡がpH6前後の酸性を示すのに対し、貝殻を構成する炭酸カルシウムが作用してpH8前後のアルカリ性を示す。そのため、狩猟や漁労による食料残滓(ざんし)である鳥・獣・魚骨、利器や装身具に加工された骨・角・牙(きば)・貝製品、さらには埋葬された人骨や犬骨なども腐朽せずに遺存し、豊かな情報を提供している。

[堀越正行]

研究史

貝塚は手長明神(てながみょうじん)などの巨人や、800歳まで生きた比丘尼(びくに)によってつくられたという伝説は、奈良時代から江戸時代の人々が貝塚の形成者を超人的に理解していたことを物語っている。これを、大昔住んでいた人間によるとの想定で発掘したのはE・S・モースが最初で、彼により1877年(明治10)9月、大森貝塚(東京都大田区・品川区)が発掘調査された。以後、貝塚を中心に縄文時代研究が進展した。人種論の材料としての人骨の採集に重きを置く発掘、貝塚の層位を利用して土器の編年を体系化しようとする発掘、これに貝の淡鹹(たんかん)度を絡め、海進・海退の問題を解明しようとする発掘などが、第二次世界大戦前までの主流であった。戦後、貝塚を集落という観点でとらえる調査・研究が進捗(しんちょく)する一方、魚貝類の詳細な分析研究が、生態学的研究や自然貝層の研究などとともに進み、生業や環境に関する理解が深まっている。今日ようやく貝塚が総合的に解明されつつあるといえる。

[堀越正行]

『石井則孝他著『シンポジウム 縄文貝塚の謎』(1978・新人物往来社)』『酒詰仲男著『日本縄文石器時代食糧総説』復刻版(1984・土曜会)』『金子浩昌「貝塚と食料資源」(『日本の考古学2』所収・1960・河出書房)』


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改訂新版 世界大百科事典 「貝塚」の意味・わかりやすい解説

貝塚 (かいづか)
shellmound

過去の人々が貝類を採取し食べた後に捨てた貝殻が堆積してできた遺跡。貝殻の炭酸カルシウムによる土壌中和作用の結果,通常残りにくい人骨・獣骨などがよく保存されるため,当時の人々の食糧・生活や環境の復元に有効な資料が得られる。

日本では2000ヵ所以上の貝塚が知られているが,その大半は縄文時代に属し,特に東北地方の太平洋沿岸,東京湾,東海地方および有明海沿岸に濃密に分布する。縄文貝塚の形成は,縄文海進による海水準変動と深く関連する。関東地方を例にあげると最終氷期に-100m以下にあった海水面は急激に上昇し始め,約8000年前の夏島貝塚が形成された頃にはほぼ現在の海水準に達した。縄文海進の最高期は縄文早期末の6500~5500年前に相当し現在の海水準より約4m高位にあり,海域は溺れ谷の奥深く拡大した。この時期の茅山(かやま)貝塚からはマガキ,ハイガイといった湾奥部の貝類が出土している。その後海水準は徐々に低下し,後退した海岸線のあとに干潟ができると貝類の採取もより活発になった。縄文前期には花輪台,幸田(こうで)の貝塚に代表される点列貝塚が形成され,中・後期になると干潟の拡大に伴いU字形または環状の長径100~150mにも及ぶ大型貝塚が多数形成された。姥山,加曾利,堀之内,大森の各貝塚では貝層の下から多数の住居址が検出されている。貝塚を構成する貝類は,地域によって異なり,北日本太平洋岸の大洞,沼津,宮戸島などの貝塚ではアサリの浅海域の貝類が,関東地方ではハマグリ,ハイガイ,マガキのような内湾種が多く,関東以西では高山寺,里木貝塚のようにハイガイの比率が高くなる。一方内陸の河川沿岸にある藤岡,水子,蜆塚などの貝塚ではヤマトシジミなど汽水域の貝類が,琵琶湖沿岸の石山貝塚ではセタシジミが採取されていた。沖縄の荻堂,室川貝塚からはシャコガイ,ヤコウガイなどサンゴ礁に成育する貝類が出土する。貝類以外の動物骨の出土も多く,北海道オホーツク文化期のモヨロ貝塚は海獣の狩猟が注目され,東北太平洋岸の沼津,宮戸島,寺脇,大畑貝塚ではマグロ,スズキ,マダイなど大型魚を対象にした高度の漁労技術が特徴的である。伊川津,吉胡,津雲貝塚からは数十体におよぶ人骨が出土し,縄文人の系統あるいは埋葬法について論じられている。

貝塚は世界各地に広く分布する。最も古い貝層を伴う遺跡といわれる最終氷期のフランスのムスティエ文化の洞窟遺跡からは,イシガイなど淡水産のみならず海産のムール貝が出土した。大規模な貝塚は中緯度地帯に多く,著名なエルテベレ貝塚に代表されるヨーロッパ北海沿岸のほか,北アメリカでは太平洋側のカリフォルニア州沿岸,大西洋側のメーン州,サウス・カロライナ州,フロリダ州の河口域,南アメリカ太平洋側のペルー南部からチリ,大西洋側のブラジルの沿岸部に多い。北海沿岸のエルテベレ文化や北アメリカのアーケイック文化にみられるように,貝塚人は海洋適応の結果,定住性の高い比較的安定した生活を送ったと考えられる。東シナ海地域も貝塚の豊富な地域で,日本の縄文土器を伴出する東三洞貝塚や弓山貝塚などの大型貝塚があり,さらに農耕がおもな生業となった後も金海貝塚や羊頭窪(ようとうわ)貝塚のように貝類の採捕は続く。海岸域をはなれて内陸部でも大型陸生マイマイの貝塚が形成されることがあり,アフリカのカプサ文化ではエスカルゴの貝塚があり,東南アジアのホアビン文化バクソン文化の遺跡からも陸生マイマイが出土する。
執筆者:

貝塚[市] (かいづか)

大阪府南部の市。1943年市制。人口9万0519(2010)。大阪湾に面し,和泉海岸平野とその南にひろがる洪積台地にまたがった南北に細長い市域をもつ。洪積台地の末端部に位置する浄土真宗願泉寺(貝塚御坊)の寺内町として発展し,明治初年まで堀と土手を寺内の周囲にめぐらしていた。海岸に平行してJR阪和線,南海本線が走り,南北に水間鉄道が走る。また,台地下には南北に紀州街道(国道26号線)が通じ,市域南部に阪和自動車道のインターチェンジがある。江戸時代から農家の副業として発展した和泉木綿織物の産地で,明治に入って近代的な紡績工場が立地し,とくに1934年に当時東洋一の規模の大日本紡績(現,ユニチカ)の工場を建設してからは泉州地域における代表的な綿スフ紡績・織物業の集積地となった。農業では,市域の南東部丘陵地や山地斜面を利用したミカン栽培や稲作の裏作としてのタマネギ栽培のほか,大阪市の近郊に位置する地の利を生かしたハウスでの蔬菜栽培も行われている。
執筆者:

和泉国の寺内町。北の大津川と南の近木(こぎ)川にはさまれ海岸に沿って南北に長く立地する。中世には木島(きのしま)荘と近木(こぎ)荘に属し,36戸の海村貝塚村が,1545年(天文14)に以前からあった寺庵に卜半斎(ぼくはんさい)了珍という僧を根来寺から招いて道場とした。50年にこの道場は,本願寺証如から阿弥陀画像を交付されて真宗の道場となり,この地は地域流通の結節点である寺内町に発展していった。77年(天正5)織田信長の雑賀(さいが)攻めの時,坊舎は破壊されたが,80年に再興し板屋道場と称した。信長によって石山本願寺から紀伊鷺森に退去させられていた顕如は,83年から3年間,大坂天満に移るまでここに寺基を置き貝塚御坊と称した。寺内町の町立て(都市計画)が完成するのはこのころで,南北4町余の地を幅3間の堀が囲み,中央を南北に紀州街道が貫通して,道の東に接して道場が建てられていた。その後,道場は願泉寺となり,寺内町は卜半(斎)家と20人の年寄によって運営された。
執筆者: 顕如が貝塚を離れた後も,寺内衆による自治行政は存続したが,94年(文禄3)了珍の奔走により,寺内が太閤検地の対象から除外されたころから,漸次卜半の寺内私領化が進んだ。1610年(慶長15)には,寺内衆が2代了閑の領主性を否定し,惣町自治の回復を徳川家康に訴えたが,かえって敗訴し,以後貝塚は御坊住職卜半氏を地頭とする封建都市に再編成され,諸役免許の特権と独立区画を保持しながら,明治維新まで寺内町として続いた。近世を通じて町数は5ヵ町,神社1社,寺院は御坊願泉寺以下10ヵ寺。周辺岸和田藩領の農村を後背地として発展し,1746年(延享3)の記録によれば,家数1500軒,人口6746人。廻船11隻,渡海41隻,漁船35隻。米屋22軒,毛綿(もめん)屋70軒,酒屋9軒,古手屋100軒,干鰯(ほしか)屋43軒,鍛冶屋40軒,櫛挽(くしびき)90軒,旅籠屋16軒,両替屋5軒,以下ほとんどの諸商諸職が集中し,商工業都市の形態を整えていた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「貝塚」の意味・わかりやすい解説

貝塚【かいづか】

古代人が捕食した貝類などの殻を遺棄したものが堆積して層をなしている遺跡。貝の採集に便利な水辺,海岸に近い台地の集落跡に見られる。ヨーロッパでは中石器時代,日本では縄文(じょうもん)時代のものが多い。種々の遺物が包含され,同時に捨てられた土器,石器,貝のカルシウムによって保護された人骨や,まれには木の実などの有機質遺物が残されている。鳥獣魚骨などから自然環境の復元,食料の研究,また,人骨から形質人類学的研究が可能である。日本には3000ヵ所以上,太平洋岸に著しく,本州では仙台湾,東京湾,霞ヶ浦沿岸,渥美湾,瀬戸内海の島々,児島湾,九州地方では有明湾などに多い。1878年末モースの行った大森貝塚の調査は日本考古学の発祥となった。
→関連項目有珠10遺跡陸平貝塚カプサ文化里浜貝塚縄文時代中石器時代バクソン文化フグ(河豚)堀之内貝塚

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日本歴史地名大系 「貝塚」の解説

貝塚
つじかいづか

[現在地名]加津佐町野田名

小松こまつ川とほり川に挟まれた舌状台地の西側にある弥生時代の遺跡。眼前に熊本県の天草あまくさの島々が望見される標高三〇―四〇メートルの地で、東手には弥生時代を中心とする栴檀せんだん貝塚がある。平成二年(一九九〇)・同八年に発掘調査。弥生時代後期前葉から終末期の土器を伴っており、溝で区切った一辺一八メートルの方形の地区がみられ、居住区域を示すとされる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「貝塚」の意味・わかりやすい解説

貝塚
かいづか
shellmound

主として先史時代の人々が,海岸や湖岸の近くに居住し,日常の食料とした貝の殻などを投棄したものが累積したところ。外国では中石器時代から,日本では縄文時代早期から始る。貝殻のほか,土器,石器,骨角器,魚骨などの破片が発見されている。また貝塚は住居の近くに形成されるので,古代人の住居址や埋葬人骨の発掘の手掛りとなる。海岸に近いところの貝塚では,おおむね浅海性のあさり,はまぐり,灰貝,かきなどの貝殻が多く,湖岸の貝塚ではしじみそのほか淡水産の貝殻が発見される。日本で初めて貝塚の学術的調査が行われたのは,1877年にアメリカ人の E.S.モースによる大森貝塚である。その後,全国各地の貝塚の調査と研究が進められた。地理学界では,東木龍七が関東地方の貝塚の分布を通して,貝塚形成時代の旧海岸汀線を推定し,その後の海岸汀線の変化に関する所論を発表している。貝塚から発見される貝殻の種類や分布の状態などから,貝塚形成時代のその付近の地形や海洋の状況などを推定することや,そのほかの出土品とともに主として先史時代の人類の生活様式の背景を研究することも可能。 1970年代以後に発達する動物考古学におもな基礎資料を提供している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「貝塚」の解説

貝塚
かいづか

過去の人類が居住地の周辺に捨てた貝類の殻や魚骨・獣骨が層をなして堆積した遺跡。縄文早~晩期に各地にみられるが,関東地方の東京湾沿岸には大規模な貝塚が集中する。地域によっては弥生~古墳時代以降までみられる。貝塚を構成する貝から,海水産主体の鹹水(かんすい)貝塚と淡水産主体の淡水貝塚にわけられ,さらに純鹹・主鹹・淡鹹・主淡・純淡に細分される。規模のうえでは平面形が環状または馬蹄(ばてい)形をなす大型貝塚と,廃屋となった竪穴住居の窪地などに堆積した小型貝塚がある。貝塚は日々の食べかすや不用品が下から順に堆積しているので,縄文土器の編年研究に大きく寄与し,通常の遺跡では遺存しにくい埋葬人骨なども多く検出され,葬制の研究や人類学的な研究が進められた。当時の食生活や生業活動に関するさまざまな資料も得られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「貝塚」の解説

貝塚
かいづか

新石器時代人が食べた貝の殻などを捨てたものが堆積してできた遺跡
縄文時代に多いが,弥生時代のものもある。貝殻のほかに土器・石器・骨角器・食物の滓 (かす) や,埋葬された人骨なども発見されるので,当時の人々の生活や自然環境を復原するのに役立つ。姥山 (うばやま) ・大森・加曽利・南堀・鳥浜などの貝塚が有名。

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旺文社世界史事典 三訂版 「貝塚」の解説

貝塚
かいづか

原始時代の人間の食べた貝がらや動物の骨・土器・石器などが層をなして堆積している場所
ヨーロッパでは中石器時代,日本では縄文時代初期から現れた。デンマークや日本に多く,考古学資料の宝庫となっている。

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防府市歴史用語集 「貝塚」の解説

貝塚

 地中に穴を掘って、生ゴミなどを捨てたゴミ捨て場です。主に貝がらが見つかります。それとともに、魚の骨なども見つかりますので、食事の状況がわかります。

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世界大百科事典(旧版)内の貝塚の言及

【和泉国】より

…両守護の下に守護代,小守護代,郡代が置かれ,両家とも守護職を世襲して戦国時代に及んだ。 南北朝内乱の過程で,荘園制の解体と変質が進んだが,高野山領近木(こぎ)荘(現,貝塚市),摂関家領大鳥荘(現,堺市)などでは,多数の小農民が年貢直納者として荘園領主に把握されており,荘園制は室町期にも崩壊には至っていない。一方,台頭してきた小農民層は団結して年貢減免闘争(荘家(しようけ)の一揆)を起こし,一部の有力農民は商業活動にも手をひろげ,高利貸活動で土地を集積し,地主化する者もあらわれるようになった。…

【貝】より


【貝と人間】
 貝と人との関係は,それを食べ物として海や川で採取したことに始まる。その食べたあとの殻が積み重なってできたのが貝塚で,日本をはじめ世界各地に遺跡として残されている。また美しい貝は飾りに使われ,さらに貨幣に使われるなど,貝と人間の関係は深くなり,貝にまつわる伝説,信仰へと発展した。…

※「貝塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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