日本歴史地名大系 「半田市」の解説 半田市はんだし 面積:四四・八四平方キロ知多半島の中央部、南北に連なる丘陵が東の衣浦(きぬうら)湾に迫る海岸段丘の上に立地する。西の知多郡阿久比(あぐい)町から阿久比川が中央部に、南に神戸(ごうど)川が東へ流れている。半田の地名は慶長一三年(一六〇八)の備前検の半田村を初見とする。現在の常滑(とこなめ)市を含む古代の堤田(つつみた)庄が、中世末には「坂田(はんだ)庄」となり、坂田が半田となったとする仮説があるが確証はない。〔原始・古代〕市北部の丘陵部に縄文早期の念仏坂(ねんぶつざか)遺跡(有脇町)、晩期の西(にし)ノ宮(みや)貝塚(乙川西ノ宮町)がある。市の中央西部丘陵には弥生期の岩滑(やなべ)遺跡(岩滑中町)・五反田(ごたんだ)遺跡(丁田町)がある。阿久比川右岸の丘陵中腹には八幡社(はちまんしや)古墳(岩滑中町)、名鉄半田口(はんだぐち)古墳(岩滑東町)、左岸に天王西(てんのうにし)古墳・源内林(げんないばやし)古墳(乙川源内林町)があり、南部の知多郡武豊(たけとよ)町寄りに中蓮(ちゆうれ)古墳がある。〔中世〕「和名抄」の英比郷は市の北半部の乙川(おつかわ)・亀崎(かめざき)地区を含み、南半分の半田・成岩(ならわ)地区は贄代(にえしろ)郷に含まれていたと考えられている。「斉民要術」紙背文書(蓬左文庫蔵)のなかの鎌倉中期の源胤雅申状にある「乙河村地頭職」は乙川村が英比郷の一部であったことの重要な根拠となっている。こうした国衙領とともに、「乙河御薗」「乙河御厨」とされる熱田社領も混在していたことが知られている(猿投神社文書、熱田神宮文書)。堤田庄が半田をも含んでいたか否かは不明で、康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に室町幕府御料所としてみえる「尾州坂田庄」は、天正年間(一五七三―九二)の織田信雄分限帳にも「知多郡坂田ノ郷内」とあり、常滑を含んでいることは間違いないが、堤田庄が坂田庄となったという根拠はない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「半田市」の意味・わかりやすい解説 半田〔市〕はんだ 愛知県南西部,知多半島東岸にある市。 1937年半田,成岩,亀崎の3町が合体して市制。江戸時代には海上交通の根拠地として発展。明治以後は醤油,味噌の生産が盛んとなり,良質の水と隣町の阿久比 (あぐい) 米を原料として清酒,食酢をつくり,食酢の生産は現在も全国一。東海道本線にさきがけて 1886年武豊線が開通して,これらの在来工業を助成した。第2次世界大戦中乙川 (おっかわ) に飛行機製作所,成岩 (ならわ) に製鉄所が操業し,近代工業化の契機をなした。 51年衣浦大橋により対岸の高浜町と結ばれ,また 57年半田,亀崎の両港は統合されて衣浦港の一部となり,衣浦臨海工業地域が造成された。現在は金属,鉄鋼,輸送機器,繊維,食品工業などの発達した工業都市。周辺農村部では,背後の知多丘陵上に流れる愛知用水を利用し,果樹や花卉栽培が行われる。また半田地方の酪農は多頭飼育の早期実現地として名高い。面積 47.42km2。人口 11万7884(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by