九久平村(読み)くぎゆうだいらむら

日本歴史地名大系 「九久平村」の解説

九久平村
くぎゆうだいらむら

[現在地名]豊田市九久平町・

たき川とともえ川の合流点から上手と下手に広がる巴川東岸沿いの村。字菅沼すがぬま集落の東には標高一九五メートルの岩谷いわや山がそびえる。九久平町には縄文時代の薬師嶽やくしだけ遺跡が、鵜ヶ瀬町には同時代の鵜ヶ瀬台遺跡がある。

字薬師嶽には、九久平鈴木氏の居館である九久平城跡があり、今は畑と化しているが、石垣や古井戸の遺構が残る。もと高橋たかはし庄司中条氏の被官九久平鈴木氏は、有力国衆となった矢並鈴木氏の一族で、矢作川・巴川沿いに広く分布していた。初代鈴木市兵衛康政は家康に仕え、九久平に陣屋を構えた。文禄四年(一五九五)に没。三代政次のとき一時期下総国に移るが、寛永一二年(一六三五)再び戻って、九久平・桂野かつらの西野にしの村の一部・川向かわむき村の一部合わせて五〇〇石余を知行し、明治まで続く。陣屋は以前と同様九久平村に置かれた。

寛文五年(一六六五)の九久平村との山論につき林添村返答書(大橋一男氏蔵)ならびに同六年の九久平村・林添村山論裁許絵図裏書(加藤鐐一氏蔵)によると、松平太郎左衛門知行所の林添はやしぞうれ村との山論は、承応二年(一六五三)来のもので、両村の裁定には三河代官鳥山牛之助が介入している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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