デジタル大辞泉
「豊田市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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豊田市
とよたし
面積:二八九・六九平方キロ
県の中央部に位置する。市域は挙母・高橋・上郷・高岡・保見・猿投・石野・松平の八つの行政区に分れている。市のほぼ中央を北東から南流する矢作川西岸は挙母地区、東岸は高橋地区で、ともに市域の中部に位置する。逢妻男川東岸は上郷地区、流域一帯と西岸は高岡地区で市域の南部に位置する。市の西北から南東流する伊保川流域は保見地区。市の北部、猿投山麓からほぼ南流して伊保川と合流する篭川流域は猿投地区。市の北部、矢作川上流域は石野地区。市の南東、巴川一帯は松平地区である。
北部は標高六二九メートルの猿投山を頂点とする猿投山塊が広がり、瀬戸陶土層へと連なる。中央部は挙母面の段丘によって形造られ、論地ヶ原や伊保原の台地もこの面上にある。南部は岡崎平野に続く平地で、東部の松平地区には、標高六八三・五メートルの炮烙山があり、東加茂郡足助町・下山村との境をなしている。
〔原始〕
先土器時代の遺跡は、たとえば幸海町ジュリンナの酒呑ジュリンナ遺跡や森町の曾根遺跡のように、低い丘陵で狭い谷を見下ろす地点に形成され、遺跡の大半は矢作川や巴川およびその支流に分布しており、二七ヵ所が確認されている。縄文時代の遺跡では、市域最古の酒呑ジュリンナ遺跡で微隆起文土器が出土し、王滝の岩陰遺跡は、巨岩の空洞を利用して居住した跡がある。荒井町の船塚遺跡からは土偶の一部が見つかり、猿投町神郷下遺跡と野見町丸根遺跡では多量の石鏃が発見された。弥生時代の遺跡では、平芝町の霊岩寺A遺跡から出土した高さ九八センチの土器棺や、高橋町高橋遺跡の集落跡、手呂町樋田の丘陵から出土した銅鐸などがある。
古墳は、伊保川・篭川・矢作川・加茂川・猿投川流域に分布し、およそ一八〇ヵ所が確認されているが、半分は開発で滅失している。渡刈町の神明遺跡、保見町・東保見町の伊保遺跡、亀首町の亀首遺跡などがある。市木川・樫尾川流域には、古墳時代後期の古墳がみられる。市内最古の花本町宇津木古墳からは、内行花文鏡が出土している。
〔古代〕
「古事記」垂仁天皇の項に「許呂母別」「三川之衣君」とあり、市の母体となった挙母の名がみえる。また、九世紀前半と推定される平城宮出土木簡には、「参河国加茂郡上□郷□□」と記され、貢物などの運ばれた証拠を残している。なお、天長二年(八二五)の田券(不詳)に押されたと伝えられる伊保郷印が、豊田市郷土資料館に保管される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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豊田〔市〕
とよた
愛知県北部,岡崎平野の北東部と美濃三河高原上に広がる中核市。北で岐阜県,北東で長野県に接する。 1951年挙母 (ころも) 市として市制,1956年高橋村を編入,1959年トヨタ自動車工業株式会社にちなんで,豊田市と改称。 1964年上郷町,1965年高岡町,1967年猿投町,1970年松平町をそれぞれ編入。 2005年には藤岡町,小原村,足助町,下山村,旭町,稲武町の6町村を編入した。江戸時代には内藤氏2万石の城下町で矢作川の水運によって繁栄。明治末期には製糸業が行なわれていたが,昭和初期の養蚕不況以後は沈滞。 1937年トヨタ自動車工業が設立されて以来急速に発展,自動車を主とする輸送機械工業がほとんどを占める。組み立て工場や下請け関連企業が集中し,豊田鉄工団地と東海電子工業団地もあって,工業出荷額は愛知県で1位。 1970年には岡崎市との間に岡多線 (現愛知環状鉄道) が開通して自動車の積み出しが,1980年には名古屋市との間に名古屋鉄道豊田新線 (現豊田線) が開通して人の往来が,それぞれ盛んになった。農業は米,畜産,野菜をはじめ,果樹,観葉植物の栽培が行なわれる。矢作川には大小のダムが配置され,市内外に農・工業用水や生活用水を供給している。杉本の貞観スギ,猿投山 (629m) の球状花崗岩は国の天然記念物。一部が天竜奥三河国定公園および愛知高原国定公園に属する。東名高速道路と伊勢湾岸自動車道が市の南西部を通り,国道 153号線,155号線,248号線などが中心市街地から放射状に広がる。面積 918.32km2。人口 42万2330(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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