日本大百科全書(ニッポニカ) 「加茂一揆」の意味・わかりやすい解説
加茂一揆
かもいっき
1836年(天保7)9月に三河(みかわ)国(愛知県)加茂郡を中心に起こった百姓一揆。同年の凶作による物価暴騰をきっかけに、9月21~25日に加茂、額田(ぬかた)両郡の農民ら一万数千人が、年貢金納相場引下げ、物価値下げ、頼母子講(たのもしこう)休会などの要求を掲げ、足助(あすけ)町(豊田(とよた)市)などの多数の在郷商人らの打毀(うちこわし)をした。参加者は「世直し」を呼号したといわれ、また参加村7町240か村の領域は幕領、5藩領、19旗本領にまたがる広範囲なもので、広域闘争、世直し一揆の典型の一つである。このため水野忠邦(ただくに)ら天保(てんぽう)期(1830~44)の幕藩領主層に深刻な影響を与え、徳川斉昭(なりあき)は政治改革の必要を将軍に建白した『戊戌封事(ぼじゅつふうじ)』のなかで、「内憂外患」の一例として大塩の乱とともに加茂一揆をあげている。この一揆の記録『鴨(かも)の騒立(さわだち)』は、一揆文献のなかで「世直し」の表現がみられる早い例として有名であり、打毀のようすや一揆指導者辰蔵(たつぞう)が痛烈に領主を批判する姿などをリアルに描写している。
[齋藤 純]
『『豊田市史 第2巻』(1981・豊田市)』▽『布川清司著『農民騒擾の思想史的研究』(1970・未来社)』▽『齋藤純著『三河加茂一揆と旗本領主支配の危機』(『天保期の人民闘争と社会変革 上』所収・1980・校倉書房)』