九条道孝(読み)くじょう・みちたか

朝日日本歴史人物事典 「九条道孝」の解説

九条道孝

没年:明治39.1.4(1906)
生年天保10.5.1(1839.6.11)
幕末明治期の華族(旧公家)。4女節子は大正天皇后の貞明皇后。幕末の政局において,父尚忠と同じく佐幕派とみなされ,王政復古の大号令渙発(1867)に際して国事御用掛を免ぜられ,参朝を停止された。明治1(1868)年1月に許され,戊辰戦争では奥羽鎮撫総督として東北各地転戦した。4年6月宮中の麝香間に控えて天皇の諮問に答える麝香間祗候を仰せ付けられる。17年公爵。同年12月毛利元徳ら上層華族24名と連名華族会館の社交クラブ化を目指した意見書を館長伊達宗城に提出したが,そのことが会館運営をめぐって,新華族を除いた華族界を二分する内紛へと発展した。23年に貴族院議員

(西尾林太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「九条道孝」の解説

九条道孝 くじょう-みちたか

1839-1906 幕末-明治時代の公卿(くぎょう),華族。
天保(てんぽう)10年5月1日生まれ。九条尚忠(ひさただ)の長男。貞明皇后の父。安政3年従三位。元治(げんじ)元年国事御用掛,慶応3年左大臣となるが,王政復古により一時参朝をとめられる。4年奥羽鎮撫総督として各地を転戦。同年従一位,氏長者。明治17年公爵,掌典長,のち貴族院議員。明治39年1月4日死去。68歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の九条道孝の言及

【会津戦争】より

…1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命し,会津処分を決定した。これに対し,米沢藩,仙台藩を中心とする東北諸藩は,閏4月,処分強硬派の新政府軍参謀世良修蔵暗殺事件を機にして攻守同盟を結び,5月には,北越諸藩に及ぶ30余藩の奥羽越列藩同盟へと発展させて新政府軍に対抗した。…

【奥羽越列藩同盟】より

戊辰戦争に際し,東北・北陸諸藩が結んだ反薩長同盟。1868年(明治1)3月下旬,奥羽鎮撫総督九条道孝は,参謀大山綱良(つなよし),世良修蔵らとともに仙台に入り,東北諸藩に会津藩征討の命を発した。仙台藩と米沢藩は,会津藩の謝罪と寛典の斡旋を行い,閏4月11日,盛岡,二本松など14藩の重臣を仙台藩白石城に集め,総督府に列藩連署の嘆願書を提出した。…

【九条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖兼実の殿第に由来するが,また九条の坊名にちなんで陶化ともいう。平安時代後期に入って,摂政・関白と氏長者の地位は藤原道長の子孫御堂流の嫡流に定着したが,源頼朝は平家を討滅すると,平家と縁故の深い摂政近衛基通をしりぞけ,基通の叔父に当たる兼実を摂政,氏長者に推挙した。兼実はその後,土御門通親との権力争いに敗れて失脚したが,通親の没後,兼実の男良経が摂政となり,九条家の分立を確実にした。…

※「九条道孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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