改訂新版 世界大百科事典 「タンジマート」の意味・わかりやすい解説
タンジマート
Tanzimat
オスマン帝国史上,1839-76年における一連の西欧化改革運動およびその諸成果をいう。恩恵的改革を意味するタンジマーティ・ハイリエの略。18世紀末以後,オスマン帝国は,地方勢力の伸張,被支配諸民族の独立運動,ヨーロッパ諸国の軍事的・政治的侵略などの結果,帝国解体の危機に直面していた。1839年11月,スルタンのアブデュルメジト1世Abdülmecit Ⅰ(在位1839-61)は,外相ムスタファ・レシト・パシャに起草させた〈ギュルハネ勅令〉を発布して,帝国の危機を救い,スレイマン1世(在位1520-66)時代の繁栄を取り戻すべく,広範な改革政治を実施することを宣言した。勅令では,イスラム教徒・非イスラム教徒を問わず帝国内全臣民の,法の前における平等,全臣民の生命・名誉・財産の保証,裁判の公開,徴税請負制(イルティザーム)の廃止,徴兵制の改善などが約束された。以後この勅令の主旨に沿って一連の改革が行われ,その結果,帝国の中央および地方行政,教育,法律など各分野における諸制度は大幅に西欧化され,帝国は神権的なイスラム国家から法治主義的な近代国家へとその国家レベルの機構を一新した。ただし,これらの改革も地方では徹底されず,とくにバルカンでは不満が増大して民族運動が激化し,このためヨーロッパ諸国の干渉を誘発して,53年クリミア戦争を勃発させることになった。一方,1838年のイギリス・トルコ通商条約以後,ヨーロッパ工業製品の中東への流入は激増し,土着の産業を没落させて帝室財政を窮迫させた。54年以後のたび重なる外債は75年になって帝国財政を破産させた。
タンジマートは,結局,国家的諸制度の〈近代化〉を促進したが,その成果は同時にヨーロッパ諸国の帝国に対する経済的進出,すなわち帝国の経済的植民地化を保証するものともなった。このため,1860年代末以後改革はしだいに後退し,70年代に入ると,スルタン,アブデュルアジーズ(在位1861-76)は専制化した。これに対してナムク・ケマル,ミドハト・パシャら〈新オスマン人〉による批判が強まり,76年に〈ミドハト憲法〉が発布されてオスマン帝国は第1次立憲政を迎え,タンジマートは終息した。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報