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九条尚忠 くじょう ひさただ

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美術人名辞典の解説

九条尚忠

輔嗣の男、実は一条治孝の三男、弘化四年左大臣、安政四年摂政関白、同五年通商条約の勅許につき幕府の請を納れんとし中山忠能等八十八廷臣の反対で却下される。この時大老は井伊直弼で尚忠は関白であった。尚忠は幕府の意向を朝廷に伝える上で一役を買っていたと思われる。東大史料(編)刊行の『古文書時代鑑』に尚忠から直弼に送った色紙が掲出されている。交わりの度が知られる。文久2年落飾謹慎を命ぜられる。明治4年(1871)歿。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

九条尚忠 くじょう-ひさただ

1798-1871 幕末の公卿(くぎょう)。
寛政10年7月25日生まれ。二条治孝(はるたか)の子。九条輔嗣(すけつぐ)の養子。安政3年関白となり,孝明天皇を補佐する。日米通商修好条約の勅許,将軍継嗣,和宮降嫁などの問題で幕府側にたったため朝廷側の反感をかい,文久2年辞任して出家。のち還俗(げんぞく)し,准三宮(じゅさんぐう)。明治4年8月21日死去。74歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
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朝日日本歴史人物事典の解説

九条尚忠

没年:明治4.8.21(1871.10.5)
生年:寛政10.7.25(1798.9.5)
幕末の公家。二条治孝と信子の子に生まれ,九条輔嗣の嗣子となる。安政5(1858)年日米修好通商条約の締結が朝幕間で問題化するなか関白として幕府との協調路線をとり,攘夷派廷臣と疎隔。将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。幕府擁護の態度が孝明天皇や廷臣の不信を買い,同年9月内覧を辞職。のち幕府の援助により復職。和宮降嫁に当たってはこれを積極的に進め,公武合体に尽力。ために尊攘派志士の糾弾激しく,文久2(1862)年6月には関白・内覧をともに辞し,久我建通,岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居。慶応3(1867)年1月謹慎・入洛禁止を免除され,12月8日還俗を許される。

(保延有美)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の九条尚忠の言及

【九条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖兼実の殿第に由来するが,また九条の坊名にちなんで陶化ともいう。平安時代後期に入って,摂政・関白と氏長者の地位は藤原道長の子孫御堂流の嫡流に定着したが,源頼朝は平家を討滅すると,平家と縁故の深い摂政近衛基通をしりぞけ,基通の叔父に当たる兼実を摂政,氏長者に推挙した。兼実はその後,土御門通親との権力争いに敗れて失脚したが,通親の没後,兼実の男良経が摂政となり,九条家の分立を確実にした。…

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