江戸後期の蘭学(らんがく)者、思想家。名は譲、号は瑞皐(ずいこう)、通称卿斎(けいさい)。文化(ぶんか)元年奥州水沢(岩手県奥州(おうしゅう)市)に生まれる。仙台侯の一門伊達将監(だてしょうげん)の家臣後藤摠介実慶(そうすけさねのぶ)(?―1812)の三男。9歳のとき父実慶が死亡し、母美代の兄で侍医の高野玄斎(1771/1775―1827)の養嗣子(ようしし)となる。玄斎は杉田玄白の門人。17歳で兄堪斎(たんさい)(?―1823)に同行して江戸に遊学、杉田伯元(はくげん)(玄白の養子)の門に入る。やがて杉田塾を辞し、吉田長叔(よしだちょうしゅく)(1779―1824)の内弟子となり、オランダ医学を修めた。19歳の1822年(文政5)通称を長英と改め、日光、筑波(つくば)山地方において採薬に従事するとともに蘭文法の研究を始める。1825年長崎に赴き、シーボルトの鳴滝(なるたき)塾に入る。23歳で蘭語論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けた。平戸(ひらど)藩主松浦(まつら)侯の援助で『シケイキュツデ』(化学書)20巻の翻訳に着手し、またシーボルトの依頼により和文蘭訳の業にも従った。養父の訃報(ふほう)に接するも病気を理由に帰郷を拒む。
1828年シーボルト事件が起こるや長崎から逃亡。以後広島、尾道(おのみち)、大坂を経て京都で開業した。同地より親戚(しんせき)にあて、高野家相続権を放棄し、また他家に禄仕(ろくし)しないことを誓う。これは西洋生理学研究を続けたいがためであった。1830年(天保1)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で開業、かたわら生理学研究を進める。1832年『西説医原枢要』内編5巻を脱稿。渡辺崋山(わたなべかざん)の住む半蔵門外田原藩邸に近かった関係で崋山の依頼による蘭書の訳述を行い、崋山や江川英龍(えがわひでたつ)らと尚歯(しょうし)会に参加して交際を深めた。1837年上州、常総地方に出張し、洋学を講じ診療を行う。1838年『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を草し、幕府の異国船撃攘(げきじょう)策を批判する。この冬、妻ゆき(経歴未詳)と結婚。翌1839年尚歯会グループに加えられた弾圧事件、蛮社(ばんしゃ)の獄で崋山が『慎機(しんき)論』および『西洋事情書』(1839)による幕政批判の罪で召喚されるや、いったん姿を隠すも、北町奉行(ぶぎょう)所に自首する。獄中『わすれがたみ』(1839)を著し無実を訴えるが、『戊戌夢物語』による幕政批判の罪で永牢(えいろう)の判決を受ける。1841年牢名主(ろうなぬし)となり、『蛮社遭厄(そうやく)小記』を草し郷党に送る。翌1842年赦免出獄を画策するも効なく、1844年(弘化1)40歳にて非人栄蔵に放火させ、小伝馬(こでんま)町の牢舎から脱獄、鈴木春山の庇護(ひご)の下に江戸市中に潜伏。その間、春山の兵学書翻訳を助ける。この年、長男の融(とおる)が生まれた。1847年『知彼一助』を宇和島藩主伊達宗城(むねなり)に献上、『三兵答古知幾(タクチーキ)』を訳了。1848年(嘉永1)伊達宗城に招かれ宇和島(愛媛県宇和島市)に行く。伊藤瑞渓(いとうずいけい)の名で蘭書を教授し、『礮家(ほうか)必読』などの兵書を翻訳する。同年宇和島を去り、広島を経由し、のち江戸に再潜入。高橋柳助、沢三伯の名で医業を営むも、嘉永(かえい)3年10月捕吏に襲われ自刃。47歳。
彼の思想は、シーボルト門下の第一人者として、蘭語学、蘭医学を通し西洋近代学術の方法と知識を身につけていた点にある。そのため伝統的封建教学である朱子学に対決し、林述斎(じゅつさい)の次男鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら守旧派による弾圧を招いた。しかし、やがて長英らの洋学は文明開化期の知的革命に受け継がれ、近代化に大きく作用した。この点は藤田茂吉(ふじたもきち)(1852―1892)『文明東漸史』(1884)の指摘にも明らかであり、高く評価されなければならない。
[藤原 暹 2016年6月20日]
『佐藤昌介校注『高野長英』(『日本思想大系55』所収・1971・岩波書店)』▽『『高野長英全集』全6巻(1978~1982・第一書房)』▽『佐藤昌介著『高野長英』(岩波新書)』
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(佐藤昌介)
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幕末の蘭学者。名は譲,のち長英,号は瑞皐(ずいこう)。陸奥水沢の生れ。幼いころ父と死別し,母方の叔父高野玄斎の養子となる。1820年(文政3)江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,25年にシーボルトをしたって長崎に留学。シーボルト事件が起こるといち早く姿をくらまし,30年(天保1)江戸に戻って麴町貝坂で開業,かたわら生理学の研究に従事し,32年に《西説医原枢要》6巻を著した。この年渡辺崋山を知り,蘭書を翻訳して崋山の西洋事情研究を助けた。38年モリソン号渡来のうわさを知り,《夢物語》を著して幕府の撃攘策に反対したが,翌年蛮社の獄が起こり崋山とともに逮捕され,幕政批判の罪で永牢の判決をうけた。44年(弘化1)放火脱獄して江戸市中に潜伏,兵書翻訳に従事した。48年(嘉永1)宇和島藩の招きでひそかに同地に赴き,翌年江戸に戻り,薬品で面相を変えて医業に従事したが,捕吏に襲われて自殺した。《高野長英全集》全5巻がある。
執筆者:佐藤 昌介
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1804.5.5~50.10.30
江戸後期の蘭学者・医者。陸奥国水沢生れ。仙台藩水沢領主留守氏の侍医高野玄斎の養子。1820年(文政3)江戸で杉田伯元・吉田長淑(ちょうしゅく)に蘭学を学ぶ。25年長崎に赴きシーボルトに師事。28年シーボルト事件勃発後,姿を隠し,30年(天保元)江戸麹町で開業。32年日本初の生理学書「医原枢要(いげんすうよう)」を著す。この年渡辺崋山を知り,以後崋山主宰の西洋事情研究会主要メンバーとなり,「二物考」「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を著す。39年蛮社の獄に連坐,永牢となるが,44年(弘化元)脱獄。宇和島・鹿児島などをひそかに訪れ,「三兵答古知幾(さんぺいたくちき)」などの蘭書翻訳を行った。50年(嘉永3)江戸青山百人町で幕吏に襲われ自殺。
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…その5年後江戸幕府は開拓をはかるが失敗,1727年(享保12)小笠原貞任の一族が渡島を試みたが帰還せず,長く無人島のまま放置された。 対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。…
…高野長英が翻訳した兵書。全27巻。…
…栽培記録としては1706年(宝永3)に北海道の瀬棚で松兵衛なる者が植えたといい,また本州では明和年間(1764‐72)に甲斐の代官中井清太夫が栽培を奨励したという。高野長英は《二物考》(1836)に異名を列挙する中に〈甲州イモ〉〈清太夫イモ〉の名を掲げ,〈荒年ノ善糧ト云フベシ〉としている。救荒作物としてサツマイモと並ぶ重要性をもつが,味が淡泊なので料理の応用範囲が広い。…
…1833年(天保4)以来,数年にわたる天保の飢饉の際,紀州藩儒遠藤勝助が有志を募って飢饉対策のために設けたのがはじめで,のちに新知識や新情報交換の会合となった。この会合をもって渡辺崋山,高野長英を中心とする洋学研究団体とみなす説があるが,崋山,長英が尚歯会の有力メンバーであったにしろ,会合の主宰者が遠藤そのひとであることは,当時の文献に〈遠藤勝助尚歯会〉と明記されていることから知られる。尚歯会での飢饉対策の成果としては,遠藤勝助の《救荒便覧》,高野長英の《救荒二物考》《避疫要法》などがあげられる。…
…日本最初の西洋生理学書。医学の基礎としての生理学が日本に知られたのは解剖学や薬物学にくらべて遅れ,その内容を理解し翻訳することが難事であったため訳書がなかった状況から,高野長英が数種の蘭書(デ・ラ・ハイエG.de la Faye,ブルーメンバハJ.F.Blumenbach,ローセT.A.Rooseらの所説)を訳編したのが本書で,12巻からなるとされるが,現存は内編5巻のみで,刊行は巻一のみにとどまった(1832∥天保3)。【宗田 一】。…
※「高野長英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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