高野長英(読み)たかの ちょうえい

  • (通称)
  • 1804―1850
  • たかのちょうえい
  • たかのちょうえい〔チヤウエイ〕
  • 高野長英 (たかのちょうえい)
  • 高野長英 たかの-ちょうえい

デジタル大辞泉の解説

[1804~1850]江戸末期の蘭学者。陸奥(むつ)水沢の人。名は譲(ゆずる)、のち長英。号、瑞皐(ずいこう)。長崎シーボルト鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織、開港論を唱えて投獄されたが脱走。沢三伯と称して江戸に潜入、医療・訳述に専念したが、幕吏に襲われて自殺夢物語」ほか、蘭書の翻訳も多い。

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百科事典マイペディアの解説

江戸後期の蘭学者。名は譲,のち長英。号は瑞皐(ずいこう)。陸奥(むつ)水沢の生れ。1820年江戸の蘭医吉田長叔に入門,ついで長崎でシーボルトに学び,鳴滝塾では翻訳の教授を務めた。シーボルト事件では難を避け江戸で町医者を開業,《西説医原枢要》《居家備用》など医学書の著訳を行った。このころ渡辺崋山小関(こせき)三英らを知る(尚歯会(しょうしかい))。1836年の天保の飢饉(ききん)の際,《救荒二物考》で早ソバとジャガイモの栽培を説き,《避疫要法》で伝染病対策を訴えた。1838年モリソン号渡来のうわさ(モリソン号事件)を聞き,《夢物語》を書いて幕府の対外強硬策を批判し,翌年蛮社の獄で崋山とともに逮捕され,永牢の判決。1844年伝馬町の牢が焼失した際放たれて戻らず,伊達宗城(むねなり)の保護を受け,兵書《三兵答古知幾(タクチーキ)》を訳した。沢三伯の偽名で江戸に潜入したが,幕府の捕吏に襲われ,自殺。
→関連項目咸宜園水沢[市]蘭学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1804-1850 江戸時代後期の蘭学者,医師。
文化元年5月5日生まれ。シーボルトに蘭学をまなび,江戸で開業,渡辺崋山らと尚歯会にくわわる。天保(てんぽう)9年「夢物語」をあらわし幕政を批判,翌年蛮社の獄で投獄されるが,15年に脱獄。嘉永(かえい)3年10月30日江戸で捕吏におそわれ自殺した。47歳。陸奥(むつ)胆沢郡(岩手県)出身。本姓は後藤。名は譲。号は驚夢山人。著作に「医原枢要」など。
【格言など】凡(およ)そ生民の災いは年の凶荒より大なるはなし(「救荒二物考」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:嘉永3.10.30(1850.12.3)
生年:文化1.5.5(1804.6.12)
江戸後期の蘭学者。名は 譲,号は瑞皐,長英は通称である。仙台藩領水沢(水沢市)の領主伊達将監 の家臣後藤実慶の3男。母は美代。幼いころ父と死別し,母方の伯父高野玄斎の養子となった。玄斎は伊達将監の侍医であった。文政3(1820)年17歳のおり,医学修業のため江戸に出て,吉田長淑の内弟子となった。同8年長崎におもむき,シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学んだ。同11年11月にシーボルト事件が起こると,いちはやく姿をかくし,事件のほとぼりがさめるのを待って九州を去り,天保1(1830)年10月に江戸に戻った。郷里水沢に帰るのを拒んで,高野家の相続権を放棄し,町医師となった。同3年にわが国最初の生理学書『西説医原枢要』を著し,第1巻を刊行した。渡辺崋山を知ったのは,この年である。それ以来,崋山の蘭学研究を助け,天保飢饉(1832)の際にはその対策のために『救荒二物考』や『避疫要法』を著し,あるいは『戊戌夢物語』を著して,幕府の対外政策を批判した。 天保10年5月に蛮社の獄が起こると,これに連座して永牢(無期禁固)の判決を受けた。弘化1(1844)年6月29日の深夜,牢内雑役夫栄蔵に金を与え,放火させて脱獄逃亡した。ただちに江戸を脱出し,郷里に直行したのち,まもなく江戸に再潜入し,田原藩医鈴木春山庇護のもとに,『兵制全書』や『三兵答古知幾』を翻訳した。宇和島藩主伊達宗城の知遇を得,嘉永1(1848)年2月に宇和島に至り,兵書翻訳に従事した。翌年1月同地を去り,8月に江戸に再潜入して,翌3年に沢三伯という名で医業を営んだが,隠れ家を捕吏におそわれて自殺した。脱獄後の長英については,さまざまな伝聞があるが,確実な史料に拠って現在記せるのは,以上の程度である。墓は大安寺(水沢市東町)にある。<著作>『高野長英全集』全6巻<参考文献>高野長運『高野長英伝』,佐藤昌介『洋学史論考』

(佐藤昌介)

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世界大百科事典 第2版の解説

1804‐50(文化1‐嘉永3)
幕末の蘭学者。名は譲,のち長英,号は瑞皐(ずいこう)。陸奥水沢の生れ。幼いころ父と死別し,母方の叔父高野玄斎の養子となる。1820年(文政3)江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,25年にシーボルトをしたって長崎に留学シーボルト事件が起こるといち早く姿をくらまし,30年(天保1)江戸に戻って麴町貝坂で開業,かたわら生理学の研究に従事し,32年に《西説医原枢要》6巻を著した。この年渡辺崋山を知り,蘭書を翻訳して崋山の西洋事情研究を助けた。

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大辞林 第三版の解説

1804~1850 江戸後期の蘭学者・蘭医。名は譲、のち長英。号は驚夢山人・幼夢山人など。陸奥むつ国水沢の人。吉田長叔に西洋医学を学び、長崎に行きシーボルトの鳴滝塾に入り、のち江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織。「夢物語」で幕政を批判し投獄されたが脱走。沢三伯と変名し兵書などの翻訳に携わった。のち隠れ家を襲われて自殺。 → 蛮社の獄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]文化1(1804).5.5. 陸奥,水沢
[没]嘉永3(1850).10.30. 江戸
江戸時代末期の蘭方医,兵学者。水沢藩士後藤実慶の子。外叔父高野玄斎の養子となり,江戸で蘭方医術を学んだ。次いで文政8 (1825) 年長崎におもむき,P.シーボルトに師事。天保年間 (30~44) ,渡辺崋山らと尚歯会を結成して海外事情の研究を広め,モリソン号事件に際しては『夢物語』を書いて鎖国の不可を主張,蛮社の獄に連座し,終生入牢を申渡された。弘化1 (44) 年脱牢,宇和島,薩摩など開明的諸藩の庇護を受けて蘭学を講述しながら,『兵制全書』など翻訳書を刊行。江戸に帰来,隠れ住んだが幕吏に探知され自殺。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

江戸後期の蘭学(らんがく)者、思想家。名は譲、号は瑞皐(ずいこう)、通称卿斎(けいさい)。文化(ぶんか)元年奥州水沢(岩手県奥州(おうしゅう)市)に生まれる。仙台侯の一門伊達将監(だてしょうげん)の家臣後藤介実慶(そうすけさねのぶ)(?―1812)の三男。9歳のとき父実慶が死亡し、母美代の兄で侍医の高野玄斎(1771/1775―1827)の養嗣子(ようしし)となる。玄斎は杉田玄白の門人。17歳で兄堪斎(たんさい)(?―1823)に同行して江戸に遊学、杉田伯元(はくげん)(玄白の養子)の門に入る。やがて杉田塾を辞し、吉田長叔(よしだちょうしゅく)(1779―1824)の内弟子となり、オランダ医学を修めた。19歳の1822年(文政5)通称を長英と改め、日光、筑波(つくば)山地方において採薬に従事するとともに蘭文法の研究を始める。1825年長崎に赴き、シーボルトの鳴滝(なるたき)塾に入る。23歳で蘭語論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けた。平戸(ひらど)藩主松浦(まつら)侯の援助で『シケイキュツデ』(化学書)20巻の翻訳に着手し、またシーボルトの依頼により和文蘭訳の業にも従った。養父の訃報(ふほう)に接するも病気を理由に帰郷を拒む。
 1828年シーボルト事件が起こるや長崎から逃亡。以後広島、尾道(おのみち)、大坂を経て京都で開業した。同地より親戚(しんせき)にあて、高野家相続権を放棄し、また他家に禄仕(ろくし)しないことを誓う。これは西洋生理学研究を続けたいがためであった。1830年(天保1)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で開業、かたわら生理学研究を進める。1832年『西説医原枢要』内編5巻を脱稿。渡辺崋山(わたなべかざん)の住む半蔵門外田原藩邸に近かった関係で崋山の依頼による蘭書の訳述を行い、崋山や江川英龍(えがわひでたつ)らと尚歯(しょうし)会に参加して交際を深めた。1837年上州、常総地方に出張し、洋学を講じ診療を行う。1838年『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を草し、幕府の異国船撃攘(げきじょう)策を批判する。この冬、妻ゆき(経歴未詳)と結婚。翌1839年尚歯会グループに加えられた弾圧事件、蛮社(ばんしゃ)の獄で崋山が『慎機(しんき)論』および『西洋事情書』(1839)による幕政批判の罪で召喚されるや、いったん姿を隠すも、北町奉行(ぶぎょう)所に自首する。獄中『わすれがたみ』(1839)を著し無実を訴えるが、『戊戌夢物語』による幕政批判の罪で永牢(えいろう)の判決を受ける。1841年牢名主(ろうなぬし)となり、『蛮社遭厄(そうやく)小記』を草し郷党に送る。翌1842年赦免出獄を画策するも効なく、1844年(弘化1)40歳にて非人栄蔵に放火させ、小伝馬(こでんま)町の牢舎から脱獄、鈴木春山の庇護(ひご)の下に江戸市中に潜伏。その間、春山の兵学書翻訳を助ける。この年、長男の融(とおる)が生まれた。1847年『知彼一助』を宇和島藩主伊達宗城(むねなり)に献上、『三兵答古知幾(タクチーキ)』を訳了。1848年(嘉永1)伊達宗城に招かれ宇和島(愛媛県宇和島市)に行く。伊藤瑞渓(いとうずいけい)の名で蘭書を教授し、『(ほうか)必読』などの兵書を翻訳する。同年宇和島を去り、広島を経由し、のち江戸に再潜入。高橋柳助、沢三伯の名で医業を営むも、嘉永(かえい)3年10月捕吏に襲われ自刃。47歳。
 彼の思想は、シーボルト門下の第一人者として、蘭語学、蘭医学を通し西洋近代学術の方法と知識を身につけていた点にある。そのため伝統的封建教学である朱子学に対決し、林述斎(じゅつさい)の次男鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら守旧派による弾圧を招いた。しかし、やがて長英らの洋学は文明開化期の知的革命に受け継がれ、近代化に大きく作用した。この点は藤田茂吉(ふじたもきち)(1852―1892)『文明東漸史』(1884)の指摘にも明らかであり、高く評価されなければならない。[藤原 暹]
『佐藤昌介校注『高野長英』(『日本思想大系55』所収・1971・岩波書店) ▽『高野長英全集』全6巻(1978~1982・第一書房) ▽佐藤昌介著『高野長英』(岩波新書)』

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367日誕生日大事典の解説

生年月日:1804年5月5日
江戸時代末期の蘭学者
1850年

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精選版 日本国語大辞典の解説

江戸末期の蘭学者。陸奥国(岩手県)水沢の人。本名譲、後に長英。字(あざな)は悦三郎、号は瑞皐、幼夢山人など。シーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を作り「夢物語」を書き幕府の鎖国策を批判。蛮社の獄で捕われたが、放火して脱獄。沢三伯と変名し江戸で医療と訳述に従事、捕吏に襲われて自殺。文化元~嘉永三年(一八〇四‐五〇

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典の解説

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治31.6(東京・宮戸座)
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
夢物語芦生容画 など
初演
明治19.5(東京・新富座)

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

1804〜50
江戸後期の蘭学者
陸奥(岩手県)水沢藩の医師の子。江戸で蘭学医の修業をし,長崎では鳴滝塾でシーボルトに学んだ。のち江戸で町医を開業し,渡辺崋山・小関三英らと西洋研究グループの尚歯 (しようし) 会を結成。1838年『戊戌 (ぼじゆつ) 夢物語』を著し,モリソン号事件での幕府の撃退を批判,翌年蛮社の獄で終身刑となった。'44年獄舎の火災で脱獄。沢三伯と変名,薬品などで容貌をかえ潜行し,兵学の訳業などに活動したが,江戸にもどったところを発見され,幕吏に囲まれて自殺した。

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世界大百科事典内の高野長英の言及

【小笠原諸島】より

…その5年後江戸幕府は開拓をはかるが失敗,1727年(享保12)小笠原貞任の一族が渡島を試みたが帰還せず,長く無人島のまま放置された。 対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。…

【三兵答古知幾】より

高野長英が翻訳した兵書。全27巻。…

【ジャガイモ】より

…栽培記録としては1706年(宝永3)に北海道の瀬棚で松兵衛なる者が植えたといい,また本州では明和年間(1764‐72)に甲斐の代官中井清太夫が栽培を奨励したという。高野長英は《二物考》(1836)に異名を列挙する中に〈甲州イモ〉〈清太夫イモ〉の名を掲げ,〈荒年ノ善糧ト云フベシ〉としている。救荒作物としてサツマイモと並ぶ重要性をもつが,味が淡泊なので料理の応用範囲が広い。…

【尚歯会】より

…1833年(天保4)以来,数年にわたる天保の飢饉の際,紀州藩儒遠藤勝助が有志を募って飢饉対策のために設けたのがはじめで,のちに新知識や新情報交換の会合となった。この会合をもって渡辺崋山,高野長英を中心とする洋学研究団体とみなす説があるが,崋山,長英が尚歯会の有力メンバーであったにしろ,会合の主宰者が遠藤そのひとであることは,当時の文献に〈遠藤勝助尚歯会〉と明記されていることから知られる。尚歯会での飢饉対策の成果としては,遠藤勝助の《救荒便覧》,高野長英の《救荒二物考》《避疫要法》などがあげられる。…

【西説医原枢要】より

…日本最初の西洋生理学書。医学の基礎としての生理学が日本に知られたのは解剖学や薬物学にくらべて遅れ,その内容を理解し翻訳することが難事であったため訳書がなかった状況から,高野長英が数種の蘭書(デ・ラ・ハイエG.de la Faye,ブルーメンバハJ.F.Blumenbach,ローセT.A.Rooseらの所説)を訳編したのが本書で,12巻からなるとされるが,現存は内編5巻のみで,刊行は巻一のみにとどまった(1832∥天保3)。【宗田 一】。…

※「高野長英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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