亀の丁(外曲輪)
かめのちよう(そとくるわ)
[現在地名]秋田市
中通六丁目・
南通みその町・
南通築地・
南通亀の町・
楢山登町の各一部
四の曲輪である亀の丁の堀端外張ともいうべき町で、現中通六丁目には亀の丁新町があり、現南通みその町には亀の丁新町と同本新町が含まれる。現南通築地は亀の丁新町、現南通亀の町は亀の丁堀反新町を含み、現楢山登町には亀の丁虎の口堀反新町・同外張南新町があった。正保(一六四四―四八)の出羽国秋田郡久保田城画図(内閣文庫蔵)には、亀の丁堀反新町のみ屋敷割が済み、侍町とある。この町を延享(一七四四―四八)頃の御城下絵図は「ウワボリ」と書き、万延元年(一八六〇)六月調の佐竹藩士禄附町附覚(県立秋田図書館蔵)にも上堀とあり、亀の丁堀反新町は上堀と称した。
亀の丁(四の曲輪)
かめのちよう(しのくるわ)
[現在地名]秋田市中通五丁目・南通亀の町・楢山登町・同南中町の各一部
三の曲輪の南、堀を隔てて四の曲輪である亀の丁曲輪がある。ここには多くの町があり、現在の中通五丁目には中亀の丁上丁・同末町・亀の丁東土手町・同西土手町が含まれる。現南通亀の町には亀の丁東土手町・中亀の丁上丁・同末町があり、現楢山登町には中亀の丁末町・亀の丁西土手町、同虎の口・同虎の口堀反新町・同西土手町末町があり、現在の楢山南中町には亀の丁南土手町が含まれる。
「梅津政景日記」元和七年(一六二一)三月一日条に「亀町まちわり御普請今日より有」とみえる。その背景に、元和四年から始まった秋田・仙北の主たる給人の久保田居住があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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