久保田城下(読み)くぼたじようか

日本歴史地名大系 「久保田城下」の解説

久保田城下
くぼたじようか

関ヶ原の戦ののち、慶長七年(一六〇二)常陸から秋田に移封された佐竹義宣が、翌八年から秋田郡窪田くぼた(久保田)神明しんめい山の地を選び築城し、それを核として建設した城下町。

城下町は神明山の北部を巡って、その西側を南流するあさひ川(そえ川)にまたがり、東南部を西南流し旭川に合流する太平たいへい川で南を画して建設された。神明山の南は当時秋田郡川尻かわしり村で、窪田郷ともよばれた。「梅津政景日記」寛永二年(一六二五)三月一二日条に「窪田郷田畑ノ内、侍屋敷、寺やしき、道、堀川欠ニ罷成候ニ付、軍役迷惑之由申候」とある。ほり川は今の旭川である。窪田は低湿地で、窪田を久保田と書き変えたのは正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に久保田城とみえるのが最初である。

〔内町〕

堀川を境とし、その東部給人町を内町と称した。宝永七年(一七一〇)の「被仰渡」(「被仰渡書抜」秋田県庁蔵)には給人町を「他国之者久保田給人町通候儀、先年より御法度ニ候、馬子・賃夫共ニ意得罷在、給人町通申度と申旅人有之候ハヽ法度之由申聞、一切通申間敷候」として、他国人の通行を規制している。また、町人町外町とまちと区別し、寛保三年(一七四三)七月二五日の「被仰渡」に内町では「商売物居売致候儀、以前より御法度ニ候所」と辻での商売を禁止しながら、「外町辻ニも只今迄之通商売物差置候儀格別」とし、居売商売についての対応を異にしている。内町とは本来的に軍事的性格の強い曲輪内の給人町をさすものであった。

〔広小路〕

二の曲輪くるわと三の曲輪の境、大手門・搦手門を出て外堀を土橋で渡った、東は長野ながの町、西は土手長どてなが町に至る東西の道。上中城うわなかじよう下中城したなかじようとともに、檜山ひやま(現能代市)多賀谷氏、角館かくだて(現仙北郡角館かくのだて町)、湯沢(現湯沢市)の両佐竹氏、横手(現横手市)戸村氏など藩主佐竹氏の一門や古内・茂木・石塚・小場・梅津・小貫・小野崎各氏の門閥大身が屋敷を並べ、城に向かって屋敷割されていた。

〔三の曲輪〕

「国典類抄」の「御本城枝城」に

<資料は省略されています>

とあるのが三の曲輪。東は長野沼ながのぬま(長沼)、西は堀川で限られ、北は外堀、南は長野町の南から西へ土手長どてなが町の南に至る。東から二四〇間、一〇二間、六六間の断続した堀に包まれている。その内側には大手門際より始まり西北の鷹匠たかじよう町西部に至る大環状の土塁を巡らし、総曲輪を形成している。土塁の高さは八尺―三間(正保年間の「出羽国秋田郡久保田城画図」内閣文庫蔵)、その上に松が植えられたようで、元禄一五年(一七〇二)六月の「被仰渡」(国典類抄)に「町々土手ニ在之松、家之前面々取立可被申候」とあり、寛政四年(一七九二)閏二月の「町触」(秋田藩町触集)には「長町土手、亀之丁土手通り枯松有之、所々松御植立被成置候」とみえ、松が管理されたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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