日本歴史地名大系 「久保田城下」の解説
久保田城下
くぼたじようか
- 秋田県:秋田市
- 久保田城下
関ヶ原の戦ののち、慶長七年(一六〇二)常陸から秋田に移封された佐竹義宣が、翌八年から秋田郡
城下町は神明山の北部を巡って、その西側を南流する
〔内町〕
堀川を境とし、その東部給人町を内町と称した。宝永七年(一七一〇)の「被仰渡」(「被仰渡書抜」秋田県庁蔵)には給人町を「他国之者久保田給人町通候儀者、先年より御法度ニ候、馬子・賃夫共ニ意得罷在、給人町通申度と申旅人有之候ハヽ法度之由申聞、一切通申間敷候」として、他国人の通行を規制している。また、町人町の
〔広小路〕
二の
〔三の曲輪〕
「国典類抄」の「御本城并枝城」に
とあるのが三の曲輪。東は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報