京都盲啞院(読み)きょうともうあいん

改訂新版 世界大百科事典 「京都盲啞院」の意味・わかりやすい解説

京都盲啞院 (きょうともうあいん)

古河太四郎が創始した日本最初の盲聾学校通称。1874年(明治7)ころから市中の待賢小学校で古河が試みた盲聾教育が発展,78年5月24日中京区御池東洞院に誕生した。市中の開設運動が知事槙村正直を動かし,創設時から府立であった。48人が入学した雨中の開業式には3000の市民が集まった。翌年現府庁前に移転,80年職業教育を開始。通学人力車,寄宿舎も用意されて,85年生徒147名と発展した。しかし松方デフレで財政困難となる。89年古河は辞任,京都市に移管された。のち2代院長鳥居嘉三郎を中心とする教職員と市民の熱意で復興し,東京盲啞学校(1880年創立の訓盲啞院が87年改称)と協力して各地に普及しはじめた盲聾教育を先導した。後身は京都府立盲学校,聾学校である。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の京都盲啞院の言及

【障害者教育】より

…1872年(明治5)発布の〈学制〉には小学校などの他に〈廃人学校アルヘシ〉との記述が認められるが,即座にそれに当たるものがつくられた形跡は今のところ見当たらない。しかし78年には最初の盲啞学校として京都盲啞院(古河太四郎らによる)が設立された。また精神遅滞児教育についてはアメリカにわたってセガンの思想にふれた石井亮一が,東京の北区滝野川に開設した〈滝乃川学園〉を嚆矢(こうし)とし,肢体不自由児教育は1932年各種学校に類する小学校として設置された東京市立光明学校がその最初である。…

【古河太四郎(古川太四郎)】より

…その後獄中で盲聾教育を発起,1873年待賢校に復帰して試み,成果をあげる。78年日本最初の盲聾学校である京都盲啞院を創設し,初代院長として本格的盲聾学校に発展させた。89年辞職,1900年大阪盲啞院長に招かれ,現職で逝去。…

【盲学校】より

…またフランスの盲人ブライユの考案した点字がこの期に各国に普及し,盲教育の内容・方法に画期的進歩をもたらした。欧米に後れて近代化を開始した日本でも,文明開化の波の中から1878年小学校教師古河太四郎らによる京都盲啞院(現,京都府立盲学校)が誕生,80年には開明官僚,啓蒙家らにより欧米にならった楽善会訓盲院(東京。現,筑波大学付属盲学校)が発足した。…

【聾学校】より

…19世紀に入って各国に聾学校が設置されたが,指導の内容は,言語指導を中心とした一般教育と職業教育であった。 日本では,明治初年に聾児の教育が試みられ,1878年古河太四郎らの尽力で京都盲啞院が開設された。また,80年には中村正直,津田仙,山尾庸三らによって東京に楽善会訓盲院が開設され,聾児も教育対象とし,84年には訓盲啞院となった。…

※「京都盲啞院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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