古河太四郎(読み)ふるかわたしろう

改訂新版 世界大百科事典 「古河太四郎」の意味・わかりやすい解説

古河(川)太四郎 (ふるかわたしろう)
生没年:1845-1907(弘化2-明治40)

日本近代盲聾教育創始者晩年には自ら〈古川〉とも書く。京都最大の寺子屋白景堂に生まれ,維新後京都府の小学校建営に参画して教師となる。その後獄中で盲聾教育を発起,1873年待賢校に復帰して試み,成果をあげる。78年日本最初の盲聾学校である京都盲啞院を創設し,初代院長として本格的盲聾学校に発展させた。89年辞職,1900年大阪盲啞院長に招かれ,現職逝去。その《京都府下大黒町待賢校瘖啞生(いんあせい)教授手順概略》(1878)は日本最初の障害児教育書で,東洋的な教育観と数々の独創的な方法や教具は今日も注目に値する。
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百科事典マイペディア 「古河太四郎」の意味・わかりやすい解説

古河(川)太四郎【ふるかわたしろう】

教育家。京都生れ。姓は古川とも書く。小学校教員を経て,1878年私立の京都盲唖院(日本最初の盲聾学校)を設立翌年公立となった)し,初代の院長となる。1900年大阪盲唖院の院長に招かれ,現職のまま亡くなった。障害児教育に関する多数の独創的な教材・教具を開発した。
→関連項目盲学校聾学校

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「古河太四郎」の意味・わかりやすい解説

古河太四郎
ふるかわたしろう

[生]弘化2(1845).3. 京都
[没]1907.12.
近代盲聾教育の創始者。漢学塾の教師の4男に生れ,1873年小学校教師となり,たまたま姉弟2人の聾唖児に接したのが機縁で 78年に日本最初の盲唖学校である京都盲唖学院を設立。翌年この学校は京都府に移管され,彼は監事兼助教となった。 82年院長,1900年私立大阪盲唖院院長。訓盲字,地図,そろばんなどの盲教育の教材を開発し,手話指文字,発音指導などの唖者教育の方法にも独創性を発揮した。著作『京都府下大黒町待賢校いん唖生徒教授手順概略』 (『文部省教育雑誌』 64号付録) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「古河太四郎」の解説

古河太四郎 ふるかわ-たしろう

1845-1907 明治時代教育者
弘化(こうか)2年2月20日生まれ。明治2年小学校教師となり,視聴覚障害者教育をこころざす。11年京都に日本初の盲唖(もうあ)院を設立。こより文字の工夫や指文字の指導など,独創的な教育法を考案,実践した。33年大阪盲唖院長。明治40年12月26日死去。63歳。京都出身。姓は古川ともかく。

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世界大百科事典(旧版)内の古河太四郎の言及

【京都盲啞院】より

古河太四郎が創始した日本最初の盲聾学校の通称。1874年(明治7)ころから市中の待賢小学校で古河が試みた盲聾教育が発展,78年5月24日中京区御池東洞院に誕生した。…

※「古河太四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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