茨城県最西端の市。2005年9月旧古河市と三和(さんわ)町,総和(そうわ)町が合体して成立した。人口14万2995(2010)。
古河市西部の旧市。1950年市制。人口5万8727(2000)。利根川,渡良瀬川,思(おもい)川の合流点付近に位置し,北は栃木県,西は埼玉県に接する。市域の大半は猿島(さしま)台地に開け,中心市街は市域北西部を占める。1455年(康正1)足利成氏が古河公方(くぼう)としてこの地を拠点とした。江戸時代には譜代大名が配置された古河藩の城下町,また日光道中の宿場町として栄え,利根川水系航路の要地として重視された。明治維新後士族授産のために始められた製糸業は大正~昭和初期に最盛期を迎え,1885年の日本鉄道(現,JR東北本線)の開業とあいまって,関東地方でも有数の生糸産地に変貌した。第2次大戦後合成繊維に押されて製糸業は衰退したが,戦時中に工場疎開に伴う大工場の立地があり,その後の工場誘致もあって輸送用機器,機械,洋傘製造などの工業も活発である。商業も盛んで商圏は栃木・埼玉両県に及ぶ。東京50km圏に位置するため東京への通勤・通学者が多く,住宅地化も進んでいる。
執筆者:中川 浩一
《万葉集》に載る〈許我の渡〉が地名の初出とされる。鎌倉時代には下河辺荘に属した。渡良瀬川の渡津,奥州に通じる要衝として発展し,古河公方が拠ってからは関東の一中心となった。江戸時代は古河藩の城下町として7万1228坪の地子が免許されていた。日光道中第9次の宿場として,交通上は道中奉行の支配に置かれ,古河城は将軍の日光参拝時往返の泊り城ともなった。また毎月2・7・4・9の十二斎市が開かれる近郷商圏の中心であった。町は古河城の東を通る日光道中沿いに南から原町,台町,一丁目,二丁目,横町と続き,その東側に八幡町,七軒町,青物町,南新町,北新町,鍛冶町,西側には石(こく)町,江戸町をはじめ,大工町,肴町,元肴町,紺屋町,田町などがあり,片町,白壁町などの武家地をはさんで北西端の河岸に船渡(ふなと)町があった。これら町の役人として大年寄3人,問屋4人,そのほか各町に1人あての年寄が置かれていた。武家地は城の北のほか,城の東,町人地の南にも置かれた。町家は役の軽重によって屋敷,畑屋敷,歩役屋敷に分けられ,1763年(宝暦13)の戸口は953軒,5121人。旅籠屋は本陣・脇本陣を含め33軒(《宿村大概帳》)を数えた。なお町内の御用達商人は酒,肴,糀(こうじ),豆腐,金具,八百屋など21名,ほかに大工,木挽,畳差,屋根葺,桶屋などの棟梁が御用達に指定されていた。また渡良瀬川通り古河河岸は高瀬船8,茶船5,伝馬船3,伝馬茶船6をそなえ,中田~栗橋間の利根川渡にも使用されていた。明治維新で古河城は廃城となり,1873年(明治6)にはことごとく破却された。さらに城跡の大半は渡良瀬川の改修で河川敷になった。
→古河藩
執筆者:本間 清利
古河市東部の旧町。旧猿島郡所属。人口3万9718(2000)。結城市の南西に接し,町域の大半は台地である。中心集落の諸川は近世には日光東街道の宿駅で,日光社参の諸大名の往来でにぎわった。東部を南流する飯沼川沿岸の水田は江戸時代に開かれた新田で,明治以降も改良事業が行われ,穀倉地帯となった。ハクサイなどの野菜やヒノキなどの苗木も産する。歴史的には南接する境町とのつながりが強く,南部は境町の商圏に属するが,近年は旧古河市や旧総和町とのつながりが強くなっている。
執筆者:千葉 立也
猿島郡所属。1968年町制。人口4万8007(2000)。利根川北岸に位置し,町域の大半は台地上にある。国道4号線バイパスが通じ,早くから東京向けの野菜生産が盛んであったが,1963年に西隣の旧古河市とともに首都圏都市開発区域に指定され,二つの工業団地がつくられ,県下でも有数の内陸工業地域となった。東京から集団移転した配電盤関係の工場をはじめ,電機,機械,金属,化学などの工場があり,周辺町村からの通勤者も多い。住宅団地もつくられ,人口増加が続いている。農業も盛んで,ハクサイ,キュウリなどの野菜生産が多い。鮭延(けいえん)寺には江戸前期の儒者熊沢蕃山の墓がある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県南西端にある市。栃木、埼玉両県に接する。1950年(昭和25)市制施行。1955年新郷(しんごう)村を編入。2005年(平成17)猿島(さしま)郡総和町(そうわまち)、三和町(さんわまち)を合併。関東平野の中心を占め、猿島台地の西端部と渡良瀬(わたらせ)川、利根(とね)川の低湿地をもつ。JR東北本線、国道4号と125号、354号が通じる。中心地の古河は古くは許我(こが)、古我と記された渡し場で、中世には古河となった。豪族下河辺(しもこうべ)氏の支配地のあとに古河公方(こがくぼう)と称された足利成氏(あしかがしげうじ)が古河を居城として5代130年間、関東の政治、文化の一中心となった。日光街道の要地でもあり、近世は徳川譜代(ふだい)大名が古河藩主となり、土井(どい)氏のとき廃藩。学問が盛んで藩校盈科堂(えいかどう)があり、『雪華図説(せっかずせつ)』を著した藩主土井利位(としつら)、家老で蘭学者(らんがくしゃ)の鷹見泉石(たかみせんせき)、河口信任(しんにん)(医学)ら科学上の業績をあげた出身者が多い。
明治、大正にかけて渡良瀬川の河道拡幅工事のため、旧市街地の一部や古河城跡は河川敷となって消滅した。旧士族のおこした製糸業は発展して古河の代表的工業となったが、第二次世界大戦後衰退した。既製服などの縫製業や電子機械、自動車部品工業が発達し、坂間企業団地などに企業が進出している。洋傘、マネキン人形、渡良瀬川のヨシが原料の「よしず」などの特産もある。フナの甘露煮は名物である。東京の通勤圏に入り、住宅団地も多く、通勤者が増加している。古河公方足利成氏館(やかた)跡は県指定史跡で、周辺は古河総合公園として整備され、1998年(平成10)ほぼ完成した。旧飛田(とびた)家住宅は国指定重要文化財。また、1991年に開館した篆刻美術館(てんこくびじゅつかん)(篆刻は石に刻んだ文字を鑑賞する書道芸術の一種)は1920年(大正9)に建設された三階建ての石倉を改修したもので、国の登録有形文化財となっている。そのほかにも、鷹見泉石の晩年の住まいを改修した鷹見泉石記念館、豊富な文化財の収蔵、展示を目的にした古河歴史博物館(1990年開館)、古河文学館(1998年開館)などがある。奇祭「古河提灯竿もみまつり(こがちょうちんさおもみまつり)」(元来は古河藩領の栃木県野木町野木神社の祭礼)は有名である。面積123.58平方キロメートル、人口13万9344(2020)。
[櫻井明俊]
『『古河市のあゆみ』(1970・古河市)』▽『『古河市史』3冊(1973~1981・古河市)』▽『山口忠著『古河新誌』(1958・古河市郷土史研究会)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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