朝日日本歴史人物事典 「仁井田南陽」の解説
仁井田南陽
生年:明和7.6.6(1770.6.28)
江戸時代後期の漢学者。紀州(和歌山県)の人。名は好古,字は伯信,通称は恒吉,摸一郎。南陽,松隠と号す。幼い頃から学問を好み,経学に志をおき,伊藤仁斎・東涯の古学を慕ったが,固執することなく,広く諸説を取り入れて折衷し一家をなした。寛政4(1792)年,紀州藩藩校学習館の授読として仕えてから,57年間に職を12変わって,用人にまで昇り,深く藩政に参与した。その著『毛詩補伝』は中国に伝わり,名著としてのちに日本中に知れ渡った。書を好み,琴を弾ずるなどの風流な一面もあった。<参考文献>松下忠『紀州の藩学』高橋昌彦 藩の経済官僚としての側面も有し,徳川治宝による文化3(1806)年の藩政改革の際,「勝手方」研究を命じられる。同年『紀伊続風土記』の編纂も命じられ,天保10(1839)年これを完成。その著作『富国存念書』(1836)は和歌山藩の国産奨励,国産物自給自足論を前提とする貿易バランス論,そのうえに成立する金額の増加の結果としての富国論を説く。心に誠実であることを善とする日本の伝統的な倫理意識に道という客観的基準を持ちこむことを試みるなど,自然現象,社会現象を対象として客観視することに努めている。<参考文献>天野雅敏「紀州藩幕末期の経済思想」(安藤精一編『和歌山の研究』3巻),滝野邦雄「仁井田好古における性,道,教と経世説」(和歌山大学『経済理論』237号)
(藤田貞一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報