企救郡・規矩郡(読み)きくぐん・きくぐん

日本歴史地名大系 「企救郡・規矩郡」の解説

企救郡・規矩郡
きくぐん・きくぐん

豊前国北端に位置し、東は周防灘、北は現在の関門海峡に臨み、西は筑前国遠賀おんが郡・鞍手くらて郡、南は田川郡・京都みやこ郡に接する。近世の郡域はおよそ現在の北九州市小倉北区・小倉南区・門司もじ区に相当する。中世には規矩郡と記されることが多く、鎌倉期のものとみられる年月日未詳の肥後山北西安寺石堂碑文(相良家文書/鎌倉遺文一〇)には「豊前国菊郡肥前之寺井」とみえる。

〔古代〕

「和名抄」諸本のうち高山寺本は「救」と記す。東急本は「支多」、元和古活字本は「岐多」と訓ずるが、本来の訓は名博本の「キク」であろう。「続日本紀」天平一二年(七四〇)九月二四日条にみえる「企救郡」が郡名の初見であるが、「日本書紀」雄略天皇一八年八月一〇日条にみえる伊勢朝日郎討伐の将である物部目連の部下「筑紫聞物部大斧手」は、豊前の聞(企救)に関係する人物であろう。また「規矩郡」(「三代実録」元慶二年三月五日条)とも書き、「延喜式」民部上の頭注には「企救郡今書規矩郡」とある。「和名抄」の郷は長野ながの蒲生がもうの二郷であるが、現在の板櫃いたびつ川・むらさき川・竹馬ちくま川・ぬき川の流域に方位の違う七地区の条里遺構が残ることなどから、郷に脱漏がある可能性も指摘されている。「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条によると、「豊国」に屯倉が五ヵ所設置されたが、当郡ではみさき屯倉(現門司区に比定)大抜おおぬく屯倉(現小倉南区に比定)が置かれた。「三代実録」元慶二年(八七八)三月五日条によると、大宰府に対し当郡の銅を採取するため当郡徭夫一〇〇人を採銅客作児とするように命じている。田川郡にある香春かわら岳の銅を採取するためであろう。

天平一二年八月に藤原広嗣の乱が起こると朝廷側はすぐに追討軍を編制、九月半ばまでに長門国に達した。追討軍側の大将軍大野東人の報告(「続日本紀」同年九月二四日条)によれば、広嗣軍は企救郡板櫃鎮(現小倉北区に比定)小長の凡河内田道などを殺獲、板櫃など三鎮を占領し、その営兵一千七六七人を生捕りにし、兵器多数を押収した。板櫃鎮大長三田塩籠は逃亡したが、豊前国百姓豊国秋山らが逃げていた塩籠を殺害した(同書同月二五日条)。一方、広嗣の本隊はこの間(九月半ば頃)に筑前国の遠珂おか郡家に軍営を設け、兵の徴発などを行っていたが(同書同月二四日条)、一〇月には広嗣は一万騎を率い板櫃川に布陣し、追討軍と対峙する(同書同月九日条)。しかし、ほとんど戦わずして広嗣軍は崩壊、広嗣は一〇月二三日に肥前国松浦まつら値嘉ちか島で捕らえられた(同書一一月三日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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