日本歴史地名大系 「企救郡・規矩郡」の解説
企救郡・規矩郡
きくぐん・きくぐん
- 福岡県:豊前国
- 企救郡・規矩郡
豊前国北端に位置し、東は周防灘、北は現在の関門海峡に臨み、西は筑前国
〔古代〕
「和名抄」諸本のうち高山寺本は「救」と記す。東急本は「支多」、元和古活字本は「岐多」と訓ずるが、本来の訓は名博本の「キク」であろう。「続日本紀」天平一二年(七四〇)九月二四日条にみえる「企救郡」が郡名の初見であるが、「日本書紀」雄略天皇一八年八月一〇日条にみえる伊勢朝日郎討伐の将である物部目連の部下「筑紫聞物部大斧手」は、豊前の聞(企救)に関係する人物であろう。また「規矩郡」(「三代実録」元慶二年三月五日条)とも書き、「延喜式」民部上の頭注には「企救郡今書規矩郡」とある。「和名抄」の郷は
天平一二年八月に藤原広嗣の乱が起こると朝廷側はすぐに追討軍を編制、九月半ばまでに長門国に達した。追討軍側の大将軍大野東人の報告(「続日本紀」同年九月二四日条)によれば、広嗣軍は企救郡板櫃鎮(現小倉北区に比定)小長の凡河内田道などを殺獲、板櫃など三鎮を占領し、その営兵一千七六七人を生捕りにし、兵器多数を押収した。板櫃鎮大長三田塩籠は逃亡したが、豊前国百姓豊国秋山らが逃げていた塩籠を殺害した(同書同月二五日条)。一方、広嗣の本隊はこの間(九月半ば頃)に筑前国の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報