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藤原広嗣 ふじわらのひろつぐ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原広嗣
ふじわらのひろつぐ

[生]710?
[没]天平12(740).11.1. 肥前
奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合の子。天平9 (737) 年従五位下,翌年大養徳 (やまと) 守,式部少輔となったが,大宰少弐に左遷された。同 12年上表して政治の得失を論じ,僧正玄 昉 (げんぼう) ,吉備真備 (きびのまきび) らの専権を非難し,政府に排除するよう直言したが入れられず,同年9月に乱を起したが敗れ,肥前松浦郡値嘉島で斬られた。 (→藤原広嗣の乱 )  

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百科事典マイペディアの解説

藤原広嗣【ふじわらのひろつぐ】

奈良前期の貴族。藤原宇合(うまかい)の子。738年橘諸兄(もろえ)政権と対立して大宰府に左遷。諸兄の政治顧問であった吉備真備玄【ぼう】を除こうとして挙兵したが(藤原広嗣の乱)捕らえられて斬殺,藤原式家の衰退を招く。
→関連項目値賀島

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原広嗣 ふじわらの-ひろつぐ

?-740 奈良時代の官吏。
式家藤原宇合(うまかい)の長男。式家の復権をめざして橘諸兄(たちばなの-もろえ)政権と対立,天平(てんぴょう)10年大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷される。12年上表して玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびの-まきび)の排除を要求し,大宰府管内の兵をあつめて挙兵。大野東人(あずまひと)の追討をうけ,同年11月1日処刑された。

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのひろつぐ【藤原広嗣】

?‐740(天平12)
奈良前期の貴族。宇合(うまかい)の第1子で,藤原広嗣の乱の中心人物。738年(天平10)4月,大養徳守(やまとのかみ)に任じられたが,同年12月大宰少弐に遷された。その理由としては,玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)との対立や,京中で親族を讒乱したことなどが考えられ,時の橘諸兄(たちばなのもろえ)政権と対立し,また藤原氏内部でも孤立していたのであろう。大宰府にあった広嗣は740年8月末に上表して玄昉と吉備真備を除くことを要求し,弟の綱手とともに挙兵した。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのひろつぐ【藤原広嗣】

?~740) 奈良初期の廷臣。宇合うまかいの子。大宰少弐。政敵の橘諸兄・玄昉・吉備真備らを除こうとして北九州で挙兵したが敗れて殺され、藤原式家は衰運に向かった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原広嗣
ふじわらのひろつぐ
(?―740)

奈良前期の政治家。式家宇合(うまかい)の第1子。藤原氏一族の房前(ふささき)、麻呂(まろ)、武智麻呂(むちまろ)、宇合が相次ぎ病没した737年(天平9)に従(じゅ)五位下(げ)に叙され、翌年4月式部少輔(しょう)から大養徳守(やまとのかみ)を兼ねた。同年12月には大宰少弐(だざいのしょうに)に遷任された。740年8月大宰府から、時政の得失を論じ、天地の災異を陳(の)べて、玄(げんぼう)・下道(しもつみちの)(吉備(きびの))真備(まきび)を中央政界から除くことを要求する表を提出し、9月3日には反乱を起こした。
 朝廷は参議大野東人(あずまひと)を大将軍に任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7000人を動員し、24人の隼人(はやと)も従軍させ鎮定に向かわせた。挙兵は大宰府管内諸国に及び、広嗣は弟綱手(つなで)に筑後(ちくご)・肥前などの軍兵5000人を率いて豊後道(ぶんごのみち)より豊前(ぶぜん)国へ進ませ、一隊は田河(たがわ)道(福岡県田川郡)に配し、自らは鞍手(くらて)道(同県鞍手郡)を遠珂(おか)郡家に進み、ここに軍営を営み、烽火(のろし)をあげて軍兵を徴発し、隼人を含めて大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)・筑前(ちくぜん)・豊後などの軍兵5000人余を擁した。しかし9月22日豊前国の京都鎮(みやこのちん)・登美(とみ)鎮・板櫃(いたびつ)鎮三営は政府軍に抑えられ、10月初旬の板櫃川(北九州市小倉(こくら))の対陣で、1万余の軍勢を擁しながら渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出した。中旬には船で敗走し、羅嶋(たむらのしま)(済州島)付近に達するが、逆風で等保知駕嶋(とおちかのしま)(五島(ごとう)列島)色都嶋に吹き戻され、23日値駕嶋(ちかのしま)長野村(宇久(うく)島)で捕らえられ、11月1日綱手とともに斬(き)られた。反乱に対する処分は280人以上に及び、弟良継(よしつぐ)・田麻呂(たまろ)らも配流され、藤原式家は一時衰退した。同時に聖武(しょうむ)天皇の政局に与えた影響も大きく、天皇は伊賀・伊勢(いせ)方面の行幸や恭仁(くに)京遷都を行い、大宰府も742年から3年余りの間廃止されることとなった。『万葉集』巻八に相聞(そうもん)歌一首を載せる。[弓野正武]
『北山茂夫著『日本古代政治史の研究』(1959・岩波書店) ▽青木和夫著『奈良の都』(1965・中央公論社) ▽田村圓澄他編『古代の日本3 九州』(1970・角川書店)』

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世界大百科事典内の藤原広嗣の言及

【祟り】より

…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…

【藤原氏】より

…だが首班は左大臣長屋(ながや)王となり,王は即位した聖武天皇の皇后に光明子が夫人から昇格することに反対したので,729年(天平1)武智麻呂ら4兄弟は長屋王を反乱の罪名で自殺させ(長屋王の変),光明子を臣下の出身としては最初の皇后とした。しかし737年には疫病のために4兄弟がみな病死して県犬養三千代の前夫の子の橘諸兄(たちばなのもろえ)が朝廷の首班となり,また740年に宇合の子の広嗣が北九州で反乱を起こしたので(藤原広嗣の乱),藤原一族はしばらく塞(ひつそく)した。やがて聖武と光明との間に生まれていた孝謙女帝が即位すると,武智麻呂の子で女帝の従兄にあたる仲麻呂が勢力を伸ばし,757年(天平宝字1)には祖父不比等の手がけた養老律令を施行,また諸兄の子の奈良麻呂ら政敵を倒して淳仁天皇を立て,独裁的な権力を振るったが,孝謙前女帝が道鏡(どうきよう)と親しくなると,764年,反乱を起こして自滅した(恵美押勝の乱)。…

【藤原広嗣の乱】より

…唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。…

※「藤原広嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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