豊前国(読み)ブゼンノクニ

デジタル大辞泉 「豊前国」の意味・読み・例文・類語

ぶぜん‐の‐くに【豊前国】

豊前

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日本歴史地名大系 「豊前国」の解説

豊前国
ぶぜんのくに

九州北東部に位置し、西は筑前国、南から南東は豊後国に接し、北東は周防灘、北は関門かんもん海峡に面する。

古代

〔国号と国の概要〕

「国造本紀」によると、豊国造宇那足尼と宇佐国造宇佐都彦命がいたとされる。「豊後国風土記」には「豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国たりき」とあり、国号の由来として豊国直らの祖である菟名手に国を治めさせたところ、仲津郡中臣なかとみ(「和名抄」の同郡中臣郷か)に至ったとき白鳥が飛来して餅となるなどの祥瑞が現れたのを朝廷に奏上し、景行天皇より豊国の名を与えられたとある。この豊国がのちに豊前・豊後両国に分れた。豊前国がみえる早い例は大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)であるが、「続日本紀」文武天皇二年(六九八)九月二八日条に「豊後国真朱」が献じられたとみえており、七世紀末にはすでに両国に分れていた。「和名抄」は豊前を「止与久邇乃美知乃久知」(トヨクニノミチノクチ)と読み、国内は田川・企救きく京都みやこ仲津なかつ築城ついき上毛かみつみけ下毛しもつみけ・宇佐の八郡(下毛・宇佐両郡は現大分県)であった。同書諸本のうち東急本などは本田を一万三千二〇〇町余とし、名博本は一万七千三七七町とするが、「色葉字類抄」をはじめとする史料は一万三千二〇〇町ほどで、建久豊前国図田帳断簡写(湯屋文書/大分県史料二)も一万三千三〇〇町としている。国府の所在地は「和名抄」に「国府在京都郡」と記されているが、国分寺は仲津郡内(現在の豊津町国分)にあり、近年発掘調査により同寺の近くから国府と推定される遺跡が確認されており、本来は仲津郡に所在したか。なお国分寺は天平勝宝八歳(七五六)に他の二五ヵ国とともに仏具が下賜されていることから(「続日本紀」同歳一二月二〇日条)、この頃に建立されたのであろう。国分寺料は「弘仁式」で二万束、「延喜式」で一万四千二七四束であった。

〔「延喜式」による国勢〕

民部上によると豊前国は西海道に属する上国で、主計上での調は綿紬・綿・絹・糸・貲布・烏賊・雑魚楚割、庸は綿・米、中男作物は防壁・韓薦・折薦・黒葛・黄蘗皮・海石榴油・胡麻油・荏油・烏賊・雑魚楚割・鹿鮨・猪鮨・塩漬年魚・鮨年魚。主税上での正税・公廨は各二〇万束、文殊会料二千束、府官公廨一〇万束、衛士料一万七千五五四束、修理府官舎料六千束、池溝料三万束、救急料四万束、ほかに対馬に二千石が供出された。国内に置かれた駅馬は社埼もりさき到津いとうづ(各一五疋)田河たがわ多米ため刈田かんだ・築城(各五疋、以上福岡県域)下毛しもつみけ・宇佐・安覆あしぶ(各五疋、以上大分県域)であった(兵部省諸国駅伝馬条)

豊前国
ぶぜんのくに

九州北東部に位置し、西は筑前国、南東は豊後国に接し、東は周防灘に面する。現在は南部の下毛しもつみけ・宇佐二郡が大分県、中部以北の企救きく(規矩)田河たがわ(田川)京都みやこ仲津なかつ築城ついき上毛かむつみけ(「こうげ」ともいう)の六郡は福岡県に属している。

古代

〔大化前代〕

「国造本紀」によると、のちの豊前国と考えられる地域には豊国造宇那足尼と宇佐国造宇佐都彦命がいた。「日本書紀」神武即位前記によれば、神武天皇が菟狭うさに至ると菟狭国造の祖である菟狭津彦・菟狭津媛がおり、菟狭川(現駅館川)河上に一柱騰あしひとつあがり宮を造って饗を奉った。天皇は菟狭津媛を侍臣天種子命にめあわせたという。「日本書紀」景行天皇一二年条によれば、天皇の熊襲討伐の際、豊前国長峡ながお県に行宮を造り、ここを京と名付けたという。長峡県は現在の福岡県行橋ゆくはし市付近とみられる。「豊後国風土記」によると、景行天皇が仲津郡中臣なかとみ村に着くと、北方から白鳥が飛来して餅となり、芋草が大繁殖した。そこで菟名手が天皇に奏すると、天皇は喜び同地を豊国と名付け、彼に豊国直の姓を与えたという。宇那足尼と菟名手は同一人物とされ、また豊国は豊前国の北西部であったと考えられる。また「肥前国風土記彼杵そのき郡の項に、景行天皇凱旋の時「天皇豊前の国の宇佐の海浜の行宮に在して」とみえる。駅館やつかん川東岸の宇佐台地に川部かわべ高森たかもり古墳群がある。同古墳群の一、赤塚あかつか古墳から出土した鏡は京都府山城やましろ椿井大塚山つばいおおつかやま古墳、福岡県苅田かんだ石塚山いしつかやま古墳出土の鏡と同笵であった。四世紀前半に比定される赤塚古墳は前方後円墳として九州最古の一つにあげられ、のちに畿内となる地域の権力と宇佐地方との結び付きが考えられる。「筑後国風土記」逸文によると、継体天皇三年反乱を起こした筑紫国造磐井は豊前国上膳かみつみけ県の山中で果てたという。当時の宇佐国造の勢力圏は北は上毛郡、南は豊後国国東くにさき郡の一部まであったと推定されているので、宇佐国造はかなり強力に磐井に味方したと考えられる。乱後宇佐国造の勢力は急激に衰え、また豊国造の勢力圏にも屯倉ができており(安閑紀)、大和朝廷の支配は強化されたと考えられる。

〔律令制時代〕

豊前国は大宝二年(七〇二)豊前国上三毛郡塔里戸籍(正倉院文書)にみえるのが早い。「和名抄」国郡部に「止与久爾乃美知乃久知」と訓じる。しかし、「続日本紀」文武天皇二年(六九八)九月乙酉条に「豊後国真朱」が献じられたとの記載があり、また筑紫大宰が統轄していた筑紫・肥・豊の三国のうち、筑紫国・肥国が前と後に分れるのは持統天皇四年(六九〇)頃に集中しているので(日本書紀)、豊前・豊後の分割も同時期とみてほぼ差支えあるまい。

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改訂新版 世界大百科事典 「豊前国」の意味・わかりやすい解説

豊前国 (ぶぜんのくに)

旧国名。九州東北部に位置し,周防灘に面して南北に細長く伸び,現在中部以北が福岡県に,南部が大分県に属している。

西海道に属する上国(《延喜式》)。隣国の《豊後国風土記》は〈本(もと)豊前国と合せて一つの国たりき……因(よ)りて豊国(とよのくに)といふ〉と記し,後二つに分けて豊前,豊後の2国が成立したという。しかし最近の研究では,本来2国に分けるほどの広大な地域をもつ豊国はなかったとされる(《大分県史》)。豊国とは国名ではなく,大和朝廷といち早く交誼を結んだ村落国家的一地域に贈られた称辞で,その地域は現福岡県行橋(ゆくはし)市付近の長峡県(ながおのあがた)(京都(みやこ)郡)地方ではなかったかと推定されている。称辞の豊国を冠されたこの小地域には,後の豊前,豊後を合わせた広大な地域を支配しうる力はなかったし,豊国造の後継者や豊国直を名のった確実な人物は知られていない。

 豊前国の史料的初見は702年(大宝2)の戸籍だが,庚寅年籍(こういんねんじやく)作成を契機として690-692年(持統4-6)ごろ,九州各国の前・後国が成立したとき,机上で豊前国と豊後国が創出された可能性が強いという。《延喜式》の郡名は田河,企救(きく),京都,仲津,築城(つき),上毛(かむつみけ)(以上は現福岡県),下毛(しもつみけ),宇佐(現,大分県)の8郡である。国府の所在地を《和名抄》は京都郡とし,現京都郡みやこ町の旧豊津町国作か,現行橋市津熊に推定する説がある。《律書残篇》は,郡8,郷50,里142で,国司は介,掾,大少目と五位以下からなると伝えている。国司の初見は720年(養老4)の宇留男人,国分寺・国分尼寺は旧豊津町と推定されており,豊前各地には白鳳期にさかのぼる寺院跡が多数ある。一宮は現大分県宇佐市の宇佐神宮宇佐八幡宮)で,同八幡は東大寺大仏建立に大いに貢献し,769年(神護景雲3)の道鏡の宇佐八幡宮神託事件でも大きな役割を果たした。平安末期に平清盛・頼盛兄弟が大宰大弐になると神宮と平氏の結びつきが深まり,1166年(仁安1)宇佐大宮司公通が大宰権少弐に任命され,さらに平氏政権が成立すると大宮司公通が豊前国司に補任された。このため源平合戦時には,源氏に味方した豊後の緒方惟栄(おがたこれよし)のために神宮が焼打ちされる事件が発生した。

1185年(文治1)に平氏を滅ぼした源頼朝は平氏方の所領を没収し,鎌倉御家人を地頭に任じた。豊前では山鹿秀遠の没官領伊方荘(現,田川郡福智町の旧方城町,田川市)や板井種遠の旧領田川郡柿原名,仲津郡城井郷,築城郡伝法寺荘などの地頭職と豊前国税所職(さいしよしき)などを,92年(建久3)に下野国御家人宇都宮信房に宛て行った。宇都宮氏はこの所領を景房-信景-通房-頼房-冬綱(守綱)と相伝,通房は鎮西談議所頭人,頼房は鎮西探題評定衆,引付衆に参与,冬綱は1354年(正平9・文和3)から74年(文中3・応安7)ごろまでの間豊前守護に任じられ,宇都宮氏全盛期を創出した。庶家は野仲,山田,成恒,深水,大和,西郷,如法寺,友枝,広津,城井,佐田などの各氏で,しだいに豊前各地に土着・発展した。鎌倉初期の在地御家人としては,上毛郡の田部太子が吉富,貞富,多布原村,山国吉富などの地頭職を安堵されている。承久の乱,モンゴル襲来のころになると豊前の在地土豪は64名を数え,うち35名が鎌倉御家人で,そのうち13名が東国からの移住御家人だった。宇佐,下毛郡の土豪は宇佐八幡宮の神官関係者で,大宮司家は宗教的権威のほかに巨大な荘園領主でもあり,鎌倉中期以降に武士化した。

 南北朝時代になって,足利尊氏と直義(ただよし)兄弟が対立した観応の擾乱(じようらん)には豊前守護の少弐頼尚(しようによりひさ)が直義の養子直冬(ただふゆ)方につき,1351年(正平6・観応2)尊氏は豊後の大友氏泰を豊前守護に任じた。その翌年大友氏時が代わって豊前守護になったが,54年(正平9・文和3)宇都宮冬綱が豊前守護に任じられた。これに対して南朝方の守護として少弐頼尚・頼澄が65年(正平20・貞治4)まで存続し,南北両朝の守護並立時代が出現した。しかし今川貞世が75年(天授1・永和1)に北朝方守護に任じられ,これに中国の大内義弘が協力するようになると,九州の北朝方がしだいに勢力を増した。そして80年(天授6・康暦2)大内義弘が豊前守護になり,以後約115年間大内氏が豊前を支配した。その後約10年間大友氏が守護となるが,以後約50年間は大内氏が再び守護に任じられて豊前支配の主導権を握った。大内氏の豊前支配の方式は守護代に重臣の杉氏を任じ,それを支える郡代には有力土豪佐田,野仲,友枝氏などを起用して在地勢力の掌握に努め,さらに段銭奉行にも開発土豪層をあてて支配組織を強化した。そして宇佐宮勢力をもしだいに支配下に収め,宇佐宮勤番,人夫,材木賦課なども大内氏が行うようになった。

戦国時代になると,在地土豪層は守護代杉氏に被官化するようになった。一方,豊後の大友氏の豊前進出も始まり,大友義鑑(よしあき)は宇佐郡代佐田氏の拠る宇佐郡妙見岳城を攻略した。1534年(天文3)には大内勢と大友勢が豊後速見郡勢場ヶ原(せいばがはら)で激突,大内方は大将の杉隆連が,大友方は主将の吉弘氏直,寒田親将などが戦死し,両軍合わせて600余名の死者を出した。この戦いは大内方の敗北となり,やがて将軍の仲介で38年両氏の和睦が成立した。その後,豊後守護大友宗麟の弟晴英が大内義隆の養子となり,51年には大内氏を相続し大内義長を名のった。しかし55年(弘治1)に中国地方に毛利元就が興って,57年には大内義長を攻め滅ぼした。これに呼応して豊前では反大友の気運が高まり,西部の賀具氏は同族1000余人を香春岳(かわらだけ)城に集めて大友氏に抵抗した。大友氏は田原紹忍(親賢)に命じて香春岳城を攻略し,さらに門司城を攻めたが,これは失敗した。一方,大友氏は宇佐郡の土豪層への接近を策し,57年佐田氏以下宇佐郡衆を一致して大友氏に与力させることに成功した。このため妙見岳城にあった大内氏の旧郡代杉氏は大友氏に無抵抗で開城した。64年(永禄7)7月,大友氏と中国毛利氏の和睦が成立し,大友氏が豊前,筑前の支配権を得た。この後,大友氏は田原紹忍を妙見岳城の城督として,豊前支配に当たらせた。紹忍は宇佐・下毛両郡で所領の宛行や〈賢〉の1字を許し,名主,下作職(げさくしき)などの保障を行い,在地勢力の与力・被官化をすすめた。また紹忍は宇佐宮関係の在地勢力へも下作職を保障したり万雑公事(まんぞうくじ)免除を認め,他方,紹忍の実家奈多氏による宇佐大宮司公澄殺害事件があり,大宮司家の勢力は弱化した。戦国時代の豊前における山城の代表的なものをあげると,企救郡に門司城と三ヶ岳城,京都郡に松山城と馬ヶ岳城,仲津郡に城井城,田川郡に香春岳城と岩石城,下毛郡に長岩城,宇佐郡に妙見岳城と竜王城があった。
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1587年(天正15)の豊臣秀吉の九州の国割りで,豊前国は企救,田川2郡が毛利勝信に,京都,仲津,築城,上毛(こうげ),下毛(しもげ),宇佐の6郡が黒田孝高(よしたか)(如水)に与えられ,勝信は小倉,孝高は中津に入った。黒田氏は直ちに領内の検地を実施し,これに抵抗する在地土豪,国人を徹底的に鎮圧した。関ヶ原の戦の後,西軍に属した毛利勝信は改易された。黒田長政も筑前に移されて,代わって細川忠興(三斎)が豊前一国および豊後2郡,30万石を与えられて,丹後国宮津から入部した。細川氏は小倉・中津両城を築き城下町を拡張,他方,検地や人畜改めを行い,手永(てなが)制度を設けて農民を支配した。細川氏の厳しい農民統制は多数の走り百姓を出した。細川氏は1632年(寛永9)熊本に転じ,そのあとは小笠原忠真(小倉,15万石),小笠原長次(中津,8万石),松平重直(宇佐郡竜王,3万7000石)に分与された。これら3大名は江戸幕府が外様大名の監視役として九州に送り込んだ譜代大名であった。45年(正保2)松平氏は豊後国杵築(きつき)に移り,98年(元禄11)中津藩は領地を半減され,幕府領,島原(肥前)領,旗本小笠原領がおかれた。1717年(享保2)中津小笠原氏の改易後は奥平氏が入国した。この間,1646年に宇佐宮領1000石,71年(寛文11)には小倉藩の支藩小倉新田藩(のち千束(ちづか)藩)が成立した。

豊前国の経済のかなめは小倉,中津の両城下町であった。近世初期の農業は自給的色彩が濃かったので,香春,採銅所,猪膝(いのひざ)(以上田川郡)などの在町があったにすぎなかったが,18世紀以降は生産の発達にともなって,田野浦,宇島(小倉領),長洲(幕府領)などの港町や後藤寺,行事(小倉領),四日市(幕府領)などの在町が成長し,地域の経済の中心としての役割を果たした。周防灘沿岸は干拓の適地であったので,鶴田,久兵衛,岩保などの新田ができ,塩田も開かれた。田川郡では石炭の採掘が盛んとなり,塩田の塩焼きの重要な燃料として,主として周防,長門(山口県)に移出された。豊前国は九州の玄関口に当たっていたので小倉,田野浦(門司)は九州と上方を結ぶ瀬戸内海航路の船の発着場となり,多くの貨物が出入りし,参勤交代の大名や商人,文人が往来した。陸上交通では小倉を起点として長崎街道,豊後街道が通じるほか,小倉から香春,後藤寺,猪膝を経て筑前南部や豊後日田に通ずる街道,中津から耶馬渓を経て日田に至る街道,行事と田川を結ぶ街道などがあった。耶馬渓には僧禅海が30年の歳月をかけて完成した青ノ洞門がある。河川交通では遠賀川の支流の彦山川が田川郡の経済の動脈の役割を果たし,米,石炭その他の貨物を運ぶ船が上下し,山国川も幕末には幕府領,中津領の年貢米の輸送に利用された。

 18世紀後半以降は農村の荒廃が進んだ。1811年(文化8)豊後岡藩に端を発した大一揆が12年2月に宇佐・下毛両郡の中津領,島原領,幕府領にも飛び火し,専売制の廃止や質物の返還をせまった農民が庄屋や地主の家を打ちこわした。66年(慶応2)8月,第2次長州征伐戦に敗れた小倉藩の首脳部はみずからの手で小倉城に火をかけて豊津に退却した。小倉城下は長州軍に占領され,同時に農民たちの一揆が村役人や富豪の家を襲ったので,小倉領内はひどく混乱した。小倉藩はこうした混乱のうちに明治維新を迎えたのである。幕府領でも勤王の志士たちが四日市陣屋を襲い,御許山(おもとやま)に立てこもった御許山騒動が起こっている。68年(明治1)旧幕領は日田県管地となった。71年7月の廃藩置県で小倉領は小倉県,中津領は中津県となったが,同年11月両県を合わせた小倉県が成立,さらに76年4月小倉県は福岡県に併合された。下毛,宇佐の2郡は同年8月大分県に移管された。

 頼山陽が〈天下に冠たり〉と絶賛した名勝耶馬渓は全国八幡宮の総社たる宇佐宮とともに全国に名高い。また英彦山(ひこさん),求菩提山(くぼてやま)は修験道のメッカであり,小倉城下の福聚寺は豊前黄檗文化の中心であった。中津藩は洋学が盛んで,《解体新書》の翻訳者の一人前野良沢,《中津辞書》を刊行した藩主奥平昌高が出た。福沢諭吉も中津藩の出である。このほか,国学では渡辺重名,儒学では私塾〈水哉園〉で幾多の俊秀を育てた村上仏山らがいる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊前国」の意味・わかりやすい解説

豊前国
ぶぜんのくに

現在の福岡県東半部と大分県北部を占める地域の旧国名。『日本書紀』景行(けいこう)天皇紀に「豊前国長峡県(ながおのあがた)」とあるのが史料上の初見であるが、明確なのは702年(大宝2)から。古くは豊国(とよくに)があり、それが7世紀末に豊前・豊後(ぶんご)に分かれたとするが不詳。『延喜式(えんぎしき)』(927成)では西海道(さいかいどう)にあり、上国。郡は、田河、企救(きく)、京都(みやこ)、仲津(なかつ)、築城(ついき)、上毛(かみつみけ)、下毛(しもつみけ)、宇佐の8郡。国府は京都郡説、仲津郡(行橋(ゆくはし)市)説の2説があり、京都から仲津への移転説もある。国分僧寺・尼寺はいずれも京都郡みやこ町にあり、豊前一宮(いちのみや)は宇佐郡の八幡(はちまん)宇佐宮。奈良期の豊前国の総人口は7万3000~7万4000人前後と推定されている。八幡宇佐宮は天平時代から対外関係や軍事上のことで祈請(きしょう)されており、神宮寺(じんぐうじ)(のち弥勒寺(みろくじ)と称す)は東大寺の大仏造立に深くかかわりをもっており、769年(神護景雲3)の道鏡即位の託宣事件で象徴されるように畿内(きない)政権との関係が深い。平安末期以来、当国にも荘園(しょうえん)が数多く成立するが、東部地域には宇佐宮領が集中している。宇佐宮領荘園はその成立要因によって3種に分けられるが、このうち、豊前国には奈良時代の封戸(ふこ)が荘園化した「十箇郷三箇荘」(根本神領)、位田・供田などから発展した「本御(ほんみ)荘十八カ所」の多くが存在し、弥勒寺も国内に多くの荘園を所有していた。

 鎌倉期の守護には武藤、金沢(かねさわ)、糸田氏らが補任(ぶにん)され、南北朝期には少弐(しょうに)、大友、今川、渋川(しぶかわ)氏らが交替、室町期には大内氏が歴代守護となっている。戦国期には、大内、大友、城井(きい)、毛利らの諸氏が覇を競い、やがて大友氏が制するが、それも安定せず、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉が九州を統一した。秀吉は、宇佐、下毛(しもげ)、上毛(こうげ)、築城、京都、中津の6郡の領主として黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))を配した。孝高は領内の検地を行い、翌88年正月には城地を下毛郡中津(中津市)に定め、城井氏を中心とする在地土豪勢力の反乱を武力で鎮定し、領国経営を行った。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの功により、黒田氏は筑前(ちくぜん)国福岡(福岡市)へ移封となった。1587年企救郡小倉(こくら)に入った毛利勝信は、企救・田川両郡で受封したが、関ヶ原の戦いにおいて西方にくみしたため除封された。黒田・毛利の後には、細川忠興(ただおき)が豊前一国と豊後2郡(国東(くにさき)・速見(はやみ))で中津に入る。忠興は、領内の検地を行い、1602年(慶長7)末には中津から小倉に移り、中津には嗣子(しし)忠利が入った。そのほか、門司(もじ)、香春岳(かわらだけ)、岩石(がんじゃく)、一戸(ひとつど)、龍王(りゅうおう)と豊後の高田・木付(きつき)の支城に一族・有力家臣を在番として配した。このうち門司以下の7支城は1615年(元和1)の一国一城令によって破却されたが、中津城のみは残置された。忠興は1620年末、家督を忠利に譲り、自らは三斎(さんさい)と号し隠居して、翌21年4月に中津城に移り、忠利が小倉藩主となった。

 1632年(寛永9)細川忠利は、肥後熊本へ転封となり、そのあとには、譜代(ふだい)大名である小笠原(おがさわら)一族4家が配された。まず、小倉には小笠原忠真(ただざね)が、豊後の木付には忠真の弟忠知(ただとも)が(のち転封)、中津には忠真の兄忠脩(ただのぶ)の嫡子長次(ながつぐ)が、さらに龍王へは忠真の弟で松平家(能見(のみ))の養子となった松平重直が入部することとなった。小倉に入った忠真の系は、1671年(寛文11)忠雄のとき、弟真方(さねかた)に新田1万石(小倉新田藩と称す。1869年からは千束(ちづか)藩)を分知し、幕末に至るが、1866年(慶応2)の長州戦争小倉口の戦いにおいて大敗北を喫し、小倉城を自焼し、田川郡香春(こうばる)に藩庁を移した。さらに、1869年(明治2)、藩再建を期して、かつての国府所在地京都郡豊津に藩庁を移し、豊津藩と称し、廃藩に至る。中津に入った長次の系は、1698年(元禄11)藩主長胤(ながたね)の不行跡により領知没収、改めて弟長円(ながのぶ)が上毛・下毛・宇佐3郡で半知4万石を受ける。これより先、1694年(元禄7)には長胤の弟長宥(ながやす)に分知されていたが、長胤の領知没収を機に旗本に列せられ、宇佐郡時枝(ときえだ)村(宇佐市)に陣屋を置く時枝領となり幕末に至る。長胤の旧領、5万3000石(宇佐・下毛郡)は幕府領となり、宇佐郡四日市(宇佐市)に代官所が置かれる。減知された中津藩は、長円の嗣長(ながさと)が1716年(享保1)わずか9歳で死亡し、無継嗣(むけいし)を理由に領知没収、ここに小笠原中津藩は終焉(しゅうえん)した。17年、中津には丹後(たんご)国(京都府)宮津城主であった譜代大名奥平昌成(おくだいらまさしげ)が豊前国上毛・下毛・宇佐3郡、ほかに筑前国(福岡県)、備後(びんご)国(広島県)のうち計10万石で入部し、以後幕末に至る。松平重直は、龍王から豊後高田に居館を移すが、その息英親のとき、1645年(正保2)小笠原忠知の後を受けて木付へ転封となる。幕府領となった旧領をそのまま預り地とするが、1669年(寛文9)に至って肥前島原藩の飛び地となる。

 中世において多くの荘園を保持していた八幡宇佐宮は、黒田・細川などから若干の寄進を受けていたが、1646年(正保3)徳川家光(いえみつ)より宇佐村のうち1000石を朱印地として認められ宇佐神宮領となる。四日市代官所管下の村々は、奥平中津藩成立の時点で一部中津藩に編入され、残りはのちに豊後日田(ひた)代官所管下に入り、四日市には陣屋が残置される。1870年(明治3)には、対馬厳原(つしまいづはら)藩の飛び地も置かれる。71年7月の廃藩置県で、豊津・千束・中津の3県と厳原・日田・島原県領地が成立したが、同年11月に豊前一国が小倉県となり、76年4月には福岡県に入るが、同年8月下毛・宇佐2郡は大分県へ編入された。

[豊田寛三]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊前国」の意味・わかりやすい解説

豊前国
ぶぜんのくに

現在の福岡県東部と大分県北部。西海道の一国。上国。『豊後国風土記』によれば,古くは「豊国 (とよのくに) 」と呼ばれ,景行天皇が菟名手 (うなで) に治めさせ,豊国直 (あたえ) の姓 (かばね) を下賜したという。『旧事本紀』には豊国造と宇佐国造とがみえるが,前者は福岡県京都郡 (みやこぐん) を,後者は大分県宇佐郡を中心としたところとされている。宇佐には宇佐神宮が鎮座し,全国八幡宮の総本社とされ,政治的にもこの地方に後世まで大きな勢力をふるった。国府,国分寺ともに福岡県みやこ町。『延喜式』には田河郡,企救郡,京都郡など8郡,『和名抄』には 41郷,田1万 3200町を載せている。鎌倉時代中期には少弐氏がこの国の守護を兼ねたことがあり,後期には鎮西探題北条氏が兼補された。南北朝時代には少弐氏,大友氏今川氏が守護を兼ねたが,室町時代には周防の大内氏の支配下に置かれた。天文 20 (1551) 年大内氏の滅亡後は再び大友氏の所領となり,さらに毛利氏と争うにいたった。豊臣秀吉は九州を平定すると,黒田孝高を中津に封じて豊前を支配させた。関ヶ原の戦い後は初め細川忠興,次いで小笠原忠真が小倉に封じられた (→小倉藩 ) 。このほか中津 10万石には奥平氏が封じられて幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県後,小倉県となり,1876年福岡県へ併合,次いで下毛郡,宇佐郡を大分県に編入した。

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藩名・旧国名がわかる事典 「豊前国」の解説

ぶぜんのくに【豊前国】

現在の福岡県東部と大分県北部を占めた旧国名。古く豊(とよ)国から豊前国と豊後(ぶんご)国(大分県)に分かれた。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の福岡県京都郡みやこ町におかれていた。大和(やまと)朝廷が対外関係や軍事上のことで託宣を受けた宇佐(うさ)神宮が有名。鎌倉時代守護少弐(しょうに)氏北条(ほうじょう)氏一族の糸田氏、南北朝時代から室町時代は少弐氏、大友氏今川氏大内氏ら。16世紀中ごろから大友氏が勢力を伸ばすが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定により黒田氏と毛利氏の領有となった。江戸時代には小笠原(おがさわら)氏の小倉藩(のちの香春(かわら)藩)や奥平氏の中津藩などに分かれた。1871年(明治4)の廃藩置県で小倉(こくら)県となったが、1876年(明治9)に福岡県に合併、のち2郡が大分県に編入された。◇豊後国と合わせて豊州(ほうしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「豊前国」の意味・わかりやすい解説

豊前国【ぶぜんのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の福岡県東部と大分県北部。もと豊(とよ)の国。7世末ころに豊前・豊後2国に分け,《延喜式》に上国,8郡。国府は現在の福岡県行橋市付近にあったとみられる。本州との接点にあるため,常に争奪の対象となり,有力な戦国大名は現れなかった,近世初め細川氏,次いで小笠原氏の小倉藩,小笠原氏,次いで奥平氏の中津藩など3藩が置かれた。
→関連項目大分[県]九州地方福岡[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「豊前国」の解説

豊前国
ぶぜんのくに

西海道の国。現在の福岡県東部と大分県北部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では田河・企救(きく)・京都(みやこ)・仲津・築城(ついき)・上毛(かみつみけ)・下毛(しもつみけ)・宇佐の8郡からなる。国府は「和名抄」では京都郡(比定地に3説ある)とされるが,国分寺(現,福岡県みやこ町)とともに仲津郡(現,みやこ町)にあったとする説も有力。一宮は宇佐神宮(現,大分県宇佐市)。「和名抄」所載田数は1万3200余町。「延喜式」では調庸は綿・絹・烏賊(いか)など。7世紀末に豊国(とよのくに)が前後にわかれて成立。瀬戸内海に面し,早くから畿内文化の影響をうける一方,渡来人の活動も目立つ。英彦(ひこ)山・求菩提(くぼて)山・御許(おもと)山などで修験道が展開,宇佐神宮・弥勒寺は広大な荘園をもった。守護は武藤(少弐(しょうに))氏,のち北条氏一門,その後大内氏,さらに大友氏となる。江戸時代には小倉藩・中津藩が成立,幕領も多かった。1871年(明治4)の廃藩置県の後,小倉県となり,76年福岡県に合併。同年宇佐郡・下毛(しもけ)郡は大分県に編入。

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