コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

伊賀盛光 いが もりみつ

2件 の用語解説(伊賀盛光の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊賀盛光 いが-もりみつ

?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
伊賀光宗(みつむね)の玄孫光貞の子。光宗より代々世襲してきた陸奥(むつ)磐城(いわき)郡(福島県)好嶋西荘(よしまにしのしょう)の預所(あずかりどころ)職と同荘飯野八幡宮の神職を相続。嘉暦(かりゃく)3年(1328)地頭岩城隆衡(たかひら)の年貢未納を鎌倉幕府にうったえる。幕府滅亡後は北畠顕家(あきいえ)のもとで津軽の北条氏残党を討ち,のち北朝側の佐竹氏にしたがった。通称は三郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

伊賀盛光

生年:生没年不詳
鎌倉末・南北朝時代の武将。光貞の子。伊賀氏は奥州好島西庄預所職と飯野八幡別当職を代々領有し,庄園支配をめぐって地頭岩城氏としばしば争論をくり返した。嘉暦2(1327)年父光貞から所領を譲与されて以降,嘉暦,正慶,建武,貞和各年間にわたり年貢などをめぐり岩城氏と争う。建武新政府が成立すると,陸奥国将軍府体制の中で,弟貞長が二番引付衆に入り,盛光は北畠顕家から所領を安堵され,建武2(1335)年には京都三条東洞院篝役を免除され,また一族を率いて津軽合戦に参加するなど,新政権で活躍。しかし,足利尊氏が新政権に背いてからは尊氏に従い常陸など各地を転戦し,建武4/延元2年に本庄知行地が安堵され,さらに奥州東海道検断職にも補任されている。康永1/興国3(1342)年奥州総大将石塔義房から三迫への出陣を催促されている。その後,奥州管領下では管領府の奉行,使節として行動するようになる。しかし,伊賀氏は15世紀に入ると領国形成を着実に促進した岩城氏の傘下に属し,飯野八幡宮神主として命脈を保ち,飯野氏と改姓。<参考文献>佐々木慶一『中世東北の武士団』

(伊藤清郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

伊賀盛光の関連キーワード世尊寺伊俊向阿伊賀兼長伊賀光長大井田氏経春日部重行田所信高船田経政松浦定茂木知世

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone