青森県西半部の地域総称名。津刈,都加利,都加留,津加呂,東日流,東鍛流,東海路とも書く。呼称が先行し漢字をあてたとみられ,《日本書紀》斉明1年(655)7月11日条記事を初見として,正史その他に頻出する。阿倍比羅夫の北征時に津軽郡領を任命したとするが,古代国家では郡を制度化せず,11世紀末まで蝦夷地として扱い,出羽秋田城の管轄下においた。この間に水田耕作も不十分ながら展開した。12世紀初期,鎮守府と平泉の管轄の下で,津軽四郡および西浜,中浜,外浜,湊などの中世的領域を形成。鎌倉幕府は蝦夷地支配上から特別の配慮を示し,北条氏を津軽全域の地頭に任命した。幕府滅亡後もこの政治的位置は変わらず,説話などにも特別に記載。十三湊日之本(ひのもと)将軍安東氏は代表的人物である。室町後期の南部氏支配を経て,戦国末期に津軽を統一した津軽為信が津軽藩祖となり,津軽も近世的秩序に組み替えられた。
執筆者:遠藤 巌
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青森県西半部の地域の古くからの呼称で、東半部の「南部」と対する。行政的には青森、弘前(ひろさき)、黒石、五所川原(ごしょがわら)、つがる、平川の6市と、東、西、南、北、中津軽郡の5郡の範囲である。津軽の名は『日本書紀』の655年(斉明天皇1)の条に津刈の蝦夷(えみし)に冠二階を授けたという記述が初めである。15~16世紀には南部氏が現在の青森県の全域を制したが、16世紀末に大浦為信(おおうらためのぶ)(津軽為信(つがるためのぶ))が南部氏を駆逐して津軽を統一した。以後、津軽氏弘前藩領として明治維新まで続いた。
自然条件や産業文化などに南部とは異なった性格を示し、二つの地域には対立的な様相がみられる。それが生活面にも現れ、祭礼や方言の違いを示す。
[横山 弘]
『森山泰太郎著『津軽の民俗』(1965・陸奥新報社)』▽『和歌森太郎著『津軽の民俗』(1970・吉川弘文館)』
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…(1)海中の島や岩などの目標物を境として漁場の範囲を示す場合,(2)水面の面積や陸からの距離の計測による場合,(3)いわゆる〈山アテ〉や〈見通し〉のように陸上の目標物によって境界線を定める場合,(4)海路(うなじ)(沖合を通る航路)を境界線とする場合,(5)湖とか湾の真ん中を境とする場合,の五つの基本的な方法によって漁場の境が決められたようである。 以上のようなさまざまな境に対して,日本の国土・領域の境界はどのように意識されていたのかといえば,《妙本寺本曾我物語》などにみられるように,日本国の〈四至〉は,南限は熊野,北限は佐渡嶋,東限はアクル・津軽・蛮(へそ)嶋(夷島(えぞがしま)=北海道),西限は鬼界・高麗・硫黄嶋であると観念されていた。これはもちろん観念上のことであり,鎌倉幕府の軍事・警察権が高麗(朝鮮)にまで及んでいたわけではけっしてない。…
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