コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

鎌倉幕府 かまくらばくふ

7件 の用語解説(鎌倉幕府の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鎌倉幕府
かまくらばくふ

源頼朝によって鎌倉に樹立された武家政権。成立の時期は (1) 頼朝が伊豆に挙兵した治承4 (1180) 年,(2) 頼朝が朝廷から東国行政公権を委譲された寿永2 (83) 年,(3) 幕府の主要政治機関公文所,問注所が設置された同3年,(4) 守護,地頭が設置された文治1 (85) 年,(5) 頼朝が右近衛大将に任命された建久1 (90) 年,(6) 頼朝が征夷大将軍に任命された建久3 (92) 年など諸説がある。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

かまくら‐ばくふ【鎌倉幕府】

源頼朝鎌倉に開いた日本最初の武家政権。鎌倉には侍所(さむらいどころ)政所(まんどころ)問注所、地方には全国的に守護地頭を置いたほか、六波羅探題鎮西(ちんぜい)探題奥州総奉行などを置いた。源氏の将軍は3代で滅び、以後、摂関家や親王家から将軍を立てたが、実権は執権となった北条氏が握った。元弘3年(1333)滅亡。
[補説]将軍は次の9人。
第1代 源頼朝
第2代 源頼家
第3代 源実朝
第4代 九条頼経
第5代 九条頼嗣
第6代 宗尊親王
第7代 惟康親王
第8代 久明親王
第9代 守邦親王

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

鎌倉幕府【かまくらばくふ】

1180年代半ば,源頼朝が平氏を倒し鎌倉に幕府を開いてから,1333年まで存続した武家政権。1180年の以仁(もちひと)王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた頼朝は,短時日のうちに関東を平定し,源氏ゆかりの鎌倉を本拠地とし,弟範頼・義経らを西上させて源義仲や平氏を全滅させ,1189年には奥州藤原氏を滅ぼして全国に覇権を確立した。
→関連項目熱原法難吾妻鏡市河氏宇都宮氏永仁の徳政神奈川[県]鎌倉[市]鎌倉街道鎌倉時代後白河天皇式目追加治承・寿永の内乱執事徳政日本幕府奉行人藤原頼嗣藤原頼経北条貞時北条時行陸奥国留守職宗尊親王結城氏

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

防府市歴史用語集の解説

鎌倉幕府

 12世紀末から1333年まで、将軍をはじめ、武士たちが政治を行ったところです。鎌倉を本拠地としました。

出典|ほうふWeb歴史館
防府市歴史用語集について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かまくらばくふ【鎌倉幕府】

12世紀末源頼朝が鎌倉に開き,1333年(元弘3)まで続いた武家政権。
政治過程
 平治の乱の結果,1160年(永暦1)以来平氏によって伊豆に流されていた頼朝は,80年(治承4)8月以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠と定め,御家人統率のために侍所を設け,遠江以東の〈東国〉に対する経営を進めた。新邸を造営した頼朝はこの年12月,御家人たちの参集するなかで新邸に移り住む儀式を盛大に行ったが,これは新政権成立の宣言を意味するものであった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

かまくらばくふ【鎌倉幕府】

源頼朝が鎌倉に開いた日本最初の武家政権。守護・地頭が設置された1185年から1333年までの約150年間存続。源氏の将軍は頼朝・頼家・実朝の三代で滅び、以後は摂家将軍・親王将軍が立ったが、実権は代々執権職を継いだ北条氏が握った。中央に侍所・政所まんどころ(公文所くもんじよ)・問注所の諸機関を設け、全国各地に守護・地頭を置き封建制国家を確立した。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鎌倉幕府
かまくらばくふ

源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に開いた武家政権。[上横手雅敬]

政治過程と機関

平治(へいじ)の乱(1159)後、伊豆(いず)に流されていた頼朝は、1180年(治承4)8月、以仁王(もちひとおう)の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模(さがみ)の鎌倉を本拠とし、御家人(ごけにん)統率のために侍所(さむらいどころ)を置き、遠江(とおとうみ)以東の「東国」に対する経営を進めた。頼朝の住居(建築的にはこれが幕府である)も造営され、同年12月には御家人の参集するなかで、新邸移住の儀式が行われたが、これは新政権成立の宣言を意味するものであった。新政権はこの後3年間、京都の朝廷から独立した国家として東国を支配した。しかし頼朝は、一方では挙兵当初からひそかに後白河(ごしらかわ)法皇と提携していた。それゆえ、1183年(寿永2)平氏が都落ちし、法皇の院政が機能を回復すると、法皇と頼朝との交渉は急速に進み、朝廷は寿永(じゅえい)二年十月宣旨(せんじ)(1183)によって頼朝の東国支配を正式に承認した。ここに東国独立国家は解消し、東国は朝廷の支配下に復した。1185年(文治1)平氏は滅亡したが、頼朝・義経(よしつね)兄弟の対立が生まれ、義経が法皇から頼朝追討の宣旨を得たのを契機に、頼朝は朝廷に迫って守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を承認させた。義経は奥州藤原氏を頼って逃亡したが、1189年、藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に屈して義経を討ち、その泰衡も頼朝に滅ぼされた。翌1190年(建久1)頼朝は上洛(じょうらく)して法皇と対面し、日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭の地位を確認され、御家人を率いて「諸国守護」(日本全体の軍事・警察)を担当することになった。さらに1192年には頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された。
 初期の幕府の政治機関としては、侍所のほか、1184年(元暦1)に公文所(くもんじょ)(のち政所(まんどころ)と改称)、問注所(もんちゅうじょ)が置かれた。大江広元(おおえのひろもと)をはじめ、頼朝が京都から招いた官僚グループが、これらの機関の枠を超えて流動的に重要政務にあたる体制をとっていたが、基本的には鎌倉殿(将軍)の独裁的性格が強かった。地方では守護・地頭の設置と並行して、京都に京都守護、九州に鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置き、奥州には奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行を置いた。
 幕府の成立時期については、1180年の東国独立国家の成立、1183年の寿永二年十月宣旨による東国支配権の公認、1185年の守護・地頭設置の勅許、1190年の日本国総追捕使の地位確認、諸国守護権の付与、1192年の頼朝の征夷大将軍就任などに求める諸説がある。このように説が分かれるのは、幕府の本質のとらえ方の差違によるものであるから、一つの説だけを正しいと断定することはできず、1190年ごろまでが概して幕府の成立期とみられる。
 頼朝の死後は子の頼家(よりいえ)が鎌倉殿となったが、その独裁権の行使には制限が加えられ、1203年(建仁3)北条時政(ほうじょうときまさ)は頼朝の外戚(がいせき)比企(ひき)氏を滅ぼし、頼家を退けて、その弟実朝(さねとも)を鎌倉殿に擁立し、時政自身は政所別当(べっとう)として執権を称し、ここに執権政治が発足した。時政の子の義時(よしとき)は1213年(建保1)侍所別当であった和田(わだ)氏を滅ぼし、こののちは政所に加えて侍所別当をも北条氏が独占世襲した。1219年(承久1)実朝が殺されると、幕府は京都の摂関家(せっかんけ)から九条頼経(くじょうよりつね)を迎えて鎌倉殿とした(頼経はのち1226年に将軍となり、摂家将軍とよばれた)が、鎌倉殿といっても名目だけで、頼朝の未亡人である北条政子(まさこ)が、実質的な鎌倉殿として、弟の執権義時とともに幕府の実権を握った。1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は承久(じょうきゅう)の乱を起こして討幕を図ったが敗れ、この結果、幕府の勢力は飛躍的に向上した。乱後、幕府は京都守護にかえて六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、京都の警備、朝廷の監視、西国の政務などにあたらせた。
 承久の乱後、幕府は安定期を迎え、1225年(嘉禄1)政子の死を契機に、義時の子の執権北条泰時(やすとき)は独裁政治から合議政治への転換を試みた。同年、執権を2名(うち1名が連署)とし、評定衆(ひょうじょうしゅう)を置き、1232年(貞永1)には最初の武家法典である御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定、裁判の公正を図った。こうして泰時のころ執権政治は全盛を迎えた。
 泰時の孫時頼(ときより)のころから、北条氏の家督である得宗(とくそう)と、その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は、1246年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い、翌1247年(宝治1)には頼経に心を寄せていた有力御家人三浦氏を滅ぼした。さらに1252年(建長4)には頼経の子の将軍頼嗣(よりつぐ)をも京都に追い、後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に迎えた。こうして摂家将軍にかわり宮将軍が登場したが、将軍はますます名目化した。頼経追放と同時に、幕府は、当時京都で権勢を振るっていた前摂政(せっしょう)九条道家(みちいえ)(頼経の父)を失脚させ、さらにこれを契機に朝廷の政治への干渉を強め、ついには治天(じてん)の君(政治の実権を握る上皇、ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。1274年(文永11)、1281年(弘安4)の再度の蒙古(もうこ)襲来(元寇(げんこう))にあたり、幕府は防衛を全面的に指導し、朝廷が保持してきた外交権を奪って独断的に強硬な外交政策を行い、また前例を破って本所(ほんじょ)領から兵糧米を徴発したり、非御家人までも動員するに至った。時頼・時宗(ときむね)の時代の得宗専制は、主として朝廷・貴族・社寺に向けられたが、他方では御家人の支持を得るため、1249年(建長1)には引付(ひきつけ)を設けて裁判の公正、迅速を図るなど、御家人保護の政策がとられた。しかしその反面、評定衆や引付衆には北条氏一門から選任される者が増え、また得宗が私邸に一部の要人や御内人を集めて行う「寄合(よりあい)」が、しだいに評定衆の評議にかわる実質的な政治審議機関となり、公的な執権よりも、私的な得宗のほうが重要となっていった。地方でも蒙古襲来を契機に1293年(永仁1)鎮西探題(ちんぜいたんだい)が置かれ、北条一門がこれに任じられたのをはじめ、畿内(きない)近国や九州を中心として、北条一門による守護職占取が進められた。このような得宗専制の強化に伴い、御家人の不満は強まったが、1285年(弘安8)には御家人の期待を担った安達泰盛(あだちやすもり)が内管領(うちかんれい)平頼綱(たいらのよりつな)と対立し、滅ぼされる事件(霜月騒動(しもつきそうどう))が起こり、こうして執権貞時(さだとき)の時代には、御家人に対する得宗の専制が確立した。
 貨幣経済の発達によって御家人が困窮し、所領を喪失する傾向は、泰時のころから問題になっていたが、蒙古襲来による戦費の負担は、御家人の窮乏に拍車をかけた。1297年(永仁5)幕府は徳政令(とくせいれい)を出して御家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに売却・質入れしていた所領を無償で取り戻させた。この法令は、困窮した御家人の救済を図る反面、御家人の所領処分権を制限しようとするものであり、得宗専制強化の一環であった。しかしこのような政策も御家人を救済できず、得宗専制に対する御家人の反発に加えて、惣領制(そうりょうせい)の解体、守護の強大化、悪党の横行などによって、幕府の支配は動揺した。一方、治天の君や天皇の選定に関する幕府の干渉は、持明院統(じみょういんとう)・大覚寺統(だいかくじとう)の対立を激化させた。大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府の干渉に不満を抱き、幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中(しょうちゅう)の変)、1331年(元弘1)にも計画が漏れ、天皇は隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。しかし各地で討幕の兵がおこり、1333年5月にはまず足利高氏(あしかがたかうじ)(のち足利尊氏)らが六波羅探題を攻略し、さらに新田義貞(にったよしさだ)らによって鎌倉幕府も落とされ、ここに北条氏は滅亡した。[上横手雅敬]

幕府の性格

幕府は王朝国家を否定したのではなく、なお旧国家体制やその基盤が強固に存続していた。したがって幕府はすべての武士を組織することができず、幕府に従属しない非御家人も少なくなかった。しかも御家人の所領は荘園制(しょうえんせい)下の職(しき)であり、土地・人民に対する一元的支配を完成していなかった。それらの職のうち地頭職の任免権は幕府にあったが、一般荘官諸職を知行(ちぎょう)する御家人も多く、それらの職は本所・領家(りょうけ)(貴族・社寺)が任免した。
 幕府の成立時期に関する諸説は、頼朝が朝官に任じられたり、公権を与えられた時期を成立の指標としている。この点からみても、幕府は朝廷によって存在を保障されているということができる。頼朝挙兵後3年間の独立国家の時期を除けば、幕府は朝廷によって存在を保障され、その下で「諸国守護」、すなわち国家的軍事・警察の機能を果たしていたのである。
 幕府の経済的基礎は、関東御領(ごりょう)という直轄荘園と関東知行国とであり、その点では一般の権門(けんもん)(有力貴族)と区別がない。政所などの幕府機関も権門の家政機関の模倣である。このように幕府は権門の性格を備えているのである。
 在地領主である御家人の領主権は幕府の干渉を許さず、幕府権力に対する独立性が強かった。したがって幕府と御家人との主従結合はルーズな性格のものであった。幕府は御家人の本領を安堵(あんど)したり、新恩地を給与したりするが、これらの御恩に対する御家人の奉公は軍事的義務が中心で、経済的義務は臨時的、補助的でしかなかった。従者たる御家人は関東御領の武士だけでなく、全国的に多数の武士が荘園の枠を超えて組織されていた。またその主従結合は、幕府を自衛するためだけではなく、「諸国守護」の役割を果たしていた。御家人を守護・地頭に任じたのも、鎌倉殿の下で御家人が諸国守護を分担するためであった。一権門としての性格をもつ幕府は、諸国守護という国家的機能によって、権門の域を超えて公権力たりえたのである。
 主従結合とともに重要なのが領域的支配の一面である。主従結合は人的結合であっても、御家人は守護を通じ、国ごとに組織されている。このことは、幕府が旧来の地方行政機構として強固な機能をもち続けた国衙(こくが)を支配していたことを前提とする。幕府は朝廷から国衙支配権を委譲され、その機能を吸収したのである。国衙に対する幕府の支配は、東国においてはとくに強く、東国での幕府は領域支配を実現しており、本所間の相論を裁決できるような高次の権力であった。このような支配権は1183年の寿永二年十月宣旨によって朝廷から公認されたものであるが、さかのぼれば1180年以来3年にわたる東国独立国家こそ、その東国支配権の起源であった。
 幕府が朝廷に存在を保障されているという原則は、鎌倉時代を通じて変化はなかった。しかし実際は、承久の乱後の幕府は朝廷の権限をしだいに奪い、時頼以後の得宗専制期になると、治天の君の選定権までも掌握し、朝廷の政務への干渉を強めた。また荘園領主、御家人ら在地領主の領主権にも干渉を加え、幕府への集権を進めた。一方、このような干渉への反発も強く、それは幕府滅亡の要因ともなった。[上横手雅敬]
『三浦周行著『日本史の研究 新輯1』(1982・岩波書店) ▽石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』(1965・中央公論社) ▽黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(1965・中央公論社) ▽上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房) ▽石井進著『日本中世国家史の研究』(1970・岩波書店) ▽大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館) ▽網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館) ▽佐藤進一著『日本の中世国家』(1983・岩波書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の鎌倉幕府の言及

【鎌倉時代】より

…室町時代と合わせて中世と呼ぶことも多い。終期が鎌倉幕府の滅亡した1333年(元弘3)であることに異論はないが,始期は幕府成立時期に諸説があることと関連して一定しない。ただし1185年(文治1)の守護地頭の設置に求める説が最有力であり,92年(建久3)の源頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は支持を失っている。…

【執権政治】より

…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。…

【惣領制】より

…しかしまったく独立していたわけではなく,戦時には庶子は惣領の下に集まって戦闘集団を形成し,平時には惣領の主催する祖先の供養や家の祭祀を通じて精神的結びつきをもった。また鎌倉幕府や荘園領主から課されてくる公事は惣領から庶子に配分され,庶子は公事を惣領に納めた。幕府はこうした惣領制的結合に応じて,軍役や公事を一括して惣領あてに課したのであり,また惣領を通じて出されてくる庶子の所領安堵や恩賞の請求についても惣領を通じて交付している。…

【東国】より

…この国家がごく短期間で崩壊したのち,武将たちは王朝国家の下にあって,東国土着の勢力との結びつきを強めつつその実力を蓄え,11世紀に入ると,東北にも独自な政権ないし小国家の生まれる兆しが現れてくる。 こうした情勢を背景に,12世紀末の動乱の中で鎌倉幕府が樹立される。その評価については大きく2説に分かれ,王朝国家の軍事・警察の機能を請け負う権門とする説と,将門の伝統を負う自立した東国国家あるいは東国政権とみる説とが対立している。…

※「鎌倉幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

エンゲルの法則

家計の総消費支出に占める飲食費の割合 (エンゲル係数 Engel coefficientと呼ぶ) は,所得水準が高く,したがって総消費支出が大きいほど低下するというもの。エンゲル係数は国民の消費生活面...

続きを読む

コトバンク for iPhone

鎌倉幕府の関連情報