源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に開いた武家政権。
[上横手雅敬]
平治(へいじ)の乱(1159)後、伊豆(いず)に流されていた頼朝は、1180年(治承4)8月、以仁王(もちひとおう)の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模(さがみ)の鎌倉を本拠とし、御家人(ごけにん)統率のために侍所(さむらいどころ)を置き、遠江(とおとうみ)以東の「東国」に対する経営を進めた。頼朝の住居(建築的にはこれが幕府である)も造営され、同年12月には御家人の参集するなかで、新邸移住の儀式が行われたが、これは新政権成立の宣言を意味するものであった。新政権はこの後3年間、京都の朝廷から独立した国家として東国を支配した。しかし頼朝は、一方では挙兵当初からひそかに後白河(ごしらかわ)法皇と提携していた。それゆえ、1183年(寿永2)平氏が都落ちし、法皇の院政が機能を回復すると、法皇と頼朝との交渉は急速に進み、朝廷は寿永(じゅえい)二年十月宣旨(せんじ)(1183)によって頼朝の東国支配を正式に承認した。ここに東国独立国家は解消し、東国は朝廷の支配下に復した。1185年(文治1)平氏は滅亡したが、頼朝・義経(よしつね)兄弟の対立が生まれ、義経が法皇から頼朝追討の宣旨を得たのを契機に、頼朝は朝廷に迫って守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を承認させた。義経は奥州藤原氏を頼って逃亡したが、1189年、藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に屈して義経を討ち、その泰衡も頼朝に滅ぼされた。翌1190年(建久1)頼朝は上洛(じょうらく)して法皇と対面し、日本国総追捕使(そうついぶし)・総地頭の地位を確認され、御家人を率いて「諸国守護」(日本全体の軍事・警察)を担当することになった。さらに1192年には頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された。
初期の幕府の政治機関としては、侍所のほか、1184年(元暦1)に公文所(くもんじょ)(のち政所(まんどころ)と改称)、問注所(もんちゅうじょ)が置かれた。大江広元(おおえのひろもと)をはじめ、頼朝が京都から招いた官僚グループが、これらの機関の枠を超えて流動的に重要政務にあたる体制をとっていたが、基本的には鎌倉殿(将軍)の独裁的性格が強かった。地方では守護・地頭の設置と並行して、京都に京都守護、九州に鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置き、奥州には奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行を置いた。
幕府の成立時期については、1180年の東国独立国家の成立、1183年の寿永二年十月宣旨による東国支配権の公認、1185年の守護・地頭設置の勅許、1190年の日本国総追捕使の地位確認、諸国守護権の付与、1192年の頼朝の征夷大将軍就任などに求める諸説がある。このように説が分かれるのは、幕府の本質のとらえ方の差違によるものであるから、一つの説だけを正しいと断定することはできず、1190年ごろまでが概して幕府の成立期とみられる。
頼朝の死後は子の頼家(よりいえ)が鎌倉殿となったが、その独裁権の行使には制限が加えられ、1203年(建仁3)北条時政(ほうじょうときまさ)は頼朝の外戚(がいせき)比企(ひき)氏を滅ぼし、頼家を退けて、その弟実朝(さねとも)を鎌倉殿に擁立し、時政自身は政所別当(べっとう)として執権を称し、ここに執権政治が発足した。時政の子の義時(よしとき)は1213年(建保1)侍所別当であった和田(わだ)氏を滅ぼし、こののちは政所に加えて侍所別当をも北条氏が独占世襲した。1219年(承久1)実朝が殺されると、幕府は京都の摂関家(せっかんけ)から九条頼経(くじょうよりつね)を迎えて鎌倉殿とした(頼経はのち1226年に将軍となり、摂家将軍とよばれた)が、鎌倉殿といっても名目だけで、頼朝の未亡人である北条政子(まさこ)が、実質的な鎌倉殿として、弟の執権義時とともに幕府の実権を握った。1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は承久(じょうきゅう)の乱を起こして討幕を図ったが敗れ、この結果、幕府の勢力は飛躍的に向上した。乱後、幕府は京都守護にかえて六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、京都の警備、朝廷の監視、西国の政務などにあたらせた。
承久の乱後、幕府は安定期を迎え、1225年(嘉禄1)政子の死を契機に、義時の子の執権北条泰時(やすとき)は独裁政治から合議政治への転換を試みた。同年、執権を2名(うち1名が連署)とし、評定衆(ひょうじょうしゅう)を置き、1232年(貞永1)には最初の武家法典である御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定、裁判の公正を図った。こうして泰時のころ執権政治は全盛を迎えた。
泰時の孫時頼(ときより)のころから、北条氏の家督である得宗(とくそう)と、その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は、1246年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い、翌1247年(宝治1)には頼経に心を寄せていた有力御家人三浦氏を滅ぼした。さらに1252年(建長4)には頼経の子の将軍頼嗣(よりつぐ)をも京都に追い、後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に迎えた。こうして摂家将軍にかわり宮将軍が登場したが、将軍はますます名目化した。頼経追放と同時に、幕府は、当時京都で権勢を振るっていた前摂政(せっしょう)九条道家(みちいえ)(頼経の父)を失脚させ、さらにこれを契機に朝廷の政治への干渉を強め、ついには治天(じてん)の君(政治の実権を握る上皇、ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。1274年(文永11)、1281年(弘安4)の再度の蒙古(もうこ)襲来(元寇(げんこう))にあたり、幕府は防衛を全面的に指導し、朝廷が保持してきた外交権を奪って独断的に強硬な外交政策を行い、また前例を破って本所(ほんじょ)領から兵糧米を徴発したり、非御家人までも動員するに至った。時頼・時宗(ときむね)の時代の得宗専制は、主として朝廷・貴族・社寺に向けられたが、他方では御家人の支持を得るため、1249年(建長1)には引付(ひきつけ)を設けて裁判の公正、迅速を図るなど、御家人保護の政策がとられた。しかしその反面、評定衆や引付衆には北条氏一門から選任される者が増え、また得宗が私邸に一部の要人や御内人を集めて行う「寄合(よりあい)」が、しだいに評定衆の評議にかわる実質的な政治審議機関となり、公的な執権よりも、私的な得宗のほうが重要となっていった。地方でも蒙古襲来を契機に1293年(永仁1)鎮西探題(ちんぜいたんだい)が置かれ、北条一門がこれに任じられたのをはじめ、畿内(きない)近国や九州を中心として、北条一門による守護職占取が進められた。このような得宗専制の強化に伴い、御家人の不満は強まったが、1285年(弘安8)には御家人の期待を担った安達泰盛(あだちやすもり)が内管領(うちかんれい)平頼綱(たいらのよりつな)と対立し、滅ぼされる事件(霜月騒動(しもつきそうどう))が起こり、こうして執権貞時(さだとき)の時代には、御家人に対する得宗の専制が確立した。
貨幣経済の発達によって御家人が困窮し、所領を喪失する傾向は、泰時のころから問題になっていたが、蒙古襲来による戦費の負担は、御家人の窮乏に拍車をかけた。1297年(永仁5)幕府は徳政令(とくせいれい)を出して御家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに売却・質入れしていた所領を無償で取り戻させた。この法令は、困窮した御家人の救済を図る反面、御家人の所領処分権を制限しようとするものであり、得宗専制強化の一環であった。しかしこのような政策も御家人を救済できず、得宗専制に対する御家人の反発に加えて、惣領制(そうりょうせい)の解体、守護の強大化、悪党の横行などによって、幕府の支配は動揺した。一方、治天の君や天皇の選定に関する幕府の干渉は、持明院統(じみょういんとう)・大覚寺統(だいかくじとう)の対立を激化させた。大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府の干渉に不満を抱き、幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中(しょうちゅう)の変)、1331年(元弘1)にも計画が漏れ、天皇は隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。しかし各地で討幕の兵がおこり、1333年5月にはまず足利高氏(あしかがたかうじ)(のち足利尊氏)らが六波羅探題を攻略し、さらに新田義貞(にったよしさだ)らによって鎌倉幕府も落とされ、ここに北条氏は滅亡した。
[上横手雅敬]
幕府は王朝国家を否定したのではなく、なお旧国家体制やその基盤が強固に存続していた。したがって幕府はすべての武士を組織することができず、幕府に従属しない非御家人も少なくなかった。しかも御家人の所領は荘園制(しょうえんせい)下の職(しき)であり、土地・人民に対する一元的支配を完成していなかった。それらの職のうち地頭職の任免権は幕府にあったが、一般荘官諸職を知行(ちぎょう)する御家人も多く、それらの職は本所・領家(りょうけ)(貴族・社寺)が任免した。
幕府の成立時期に関する諸説は、頼朝が朝官に任じられたり、公権を与えられた時期を成立の指標としている。この点からみても、幕府は朝廷によって存在を保障されているということができる。頼朝挙兵後3年間の独立国家の時期を除けば、幕府は朝廷によって存在を保障され、その下で「諸国守護」、すなわち国家的軍事・警察の機能を果たしていたのである。
幕府の経済的基礎は、関東御領(ごりょう)という直轄荘園と関東知行国とであり、その点では一般の権門(けんもん)(有力貴族)と区別がない。政所などの幕府機関も権門の家政機関の模倣である。このように幕府は権門の性格を備えているのである。
在地領主である御家人の領主権は幕府の干渉を許さず、幕府権力に対する独立性が強かった。したがって幕府と御家人との主従結合はルーズな性格のものであった。幕府は御家人の本領を安堵(あんど)したり、新恩地を給与したりするが、これらの御恩に対する御家人の奉公は軍事的義務が中心で、経済的義務は臨時的、補助的でしかなかった。従者たる御家人は関東御領の武士だけでなく、全国的に多数の武士が荘園の枠を超えて組織されていた。またその主従結合は、幕府を自衛するためだけではなく、「諸国守護」の役割を果たしていた。御家人を守護・地頭に任じたのも、鎌倉殿の下で御家人が諸国守護を分担するためであった。一権門としての性格をもつ幕府は、諸国守護という国家的機能によって、権門の域を超えて公権力たりえたのである。
主従結合とともに重要なのが領域的支配の一面である。主従結合は人的結合であっても、御家人は守護を通じ、国ごとに組織されている。このことは、幕府が旧来の地方行政機構として強固な機能をもち続けた国衙(こくが)を支配していたことを前提とする。幕府は朝廷から国衙支配権を委譲され、その機能を吸収したのである。国衙に対する幕府の支配は、東国においてはとくに強く、東国での幕府は領域支配を実現しており、本所間の相論を裁決できるような高次の権力であった。このような支配権は1183年の寿永二年十月宣旨によって朝廷から公認されたものであるが、さかのぼれば1180年以来3年にわたる東国独立国家こそ、その東国支配権の起源であった。
幕府が朝廷に存在を保障されているという原則は、鎌倉時代を通じて変化はなかった。しかし実際は、承久の乱後の幕府は朝廷の権限をしだいに奪い、時頼以後の得宗専制期になると、治天の君の選定権までも掌握し、朝廷の政務への干渉を強めた。また荘園領主、御家人ら在地領主の領主権にも干渉を加え、幕府への集権を進めた。一方、このような干渉への反発も強く、それは幕府滅亡の要因ともなった。
[上横手雅敬]
『三浦周行著『日本史の研究 新輯1』(1982・岩波書店)』▽『石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』(1965・中央公論社)』▽『黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(1965・中央公論社)』▽『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』▽『石井進著『日本中世国家史の研究』(1970・岩波書店)』▽『大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館)』▽『網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館)』▽『佐藤進一著『日本の中世国家』(1983・岩波書店)』
12世紀末源頼朝が鎌倉に開き,1333年(元弘3)まで続いた武家政権。
平治の乱の結果,1160年(永暦1)以来平氏によって伊豆に流されていた頼朝は,80年(治承4)8月以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠と定め,御家人統率のために侍所を設け,遠江以東の〈東国〉に対する経営を進めた。新邸を造営した頼朝はこの年12月,御家人たちの参集するなかで新邸に移り住む儀式を盛大に行ったが,これは新政権成立の宣言を意味するものであった。新政権はその後3年にわたり,京都の朝廷から独立した国家として東国を支配した。しかしその反面,頼朝は当初からひそかに後白河法皇と提携していたのであり,したがって83年(寿永2)平氏が都落ちし,法皇の院政が機能を回復すると,法皇と頼朝との妥協は急速に進み,朝廷から東国支配権を正式に承認されることを代償に,京都から独立していた東国国家は解消し,朝廷の支配下に入った。85年(文治1)平氏は滅亡したが,頼朝・義経兄弟は不和となり,義経が法皇から頼朝追討の宣旨を得たのを契機に,頼朝は朝廷に迫って守護・地頭の設置を承認させた。義経は奥州藤原氏を頼ったが,89年藤原泰衡は,頼朝の圧力に屈して義経を討ち,その泰衡も頼朝に滅ぼされた。翌90年(建久1)頼朝は上洛して法皇と対面し,日本国惣追捕使・総地頭の地位を確認され,御家人を率いて諸国守護(日本国全体の軍事・警察)を担当することになった。さらに92年には頼朝は征夷大将軍に任命された。初期の幕府の政治機関には,侍所のほか,公文所(くもんじよ)(のち政所(まんどころ)と改称),問注所があったが,これらの機関のわくを超えて鎌倉殿(将軍)頼朝の独裁が強く作用していた。地方では京都に京都守護,九州に鎮西(ちんぜい)奉行,藤原氏滅亡後の奥州に奥州総奉行を置いた。
幕府の成立時期については,(1)92年の頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は,今はほとんど支持されておらず,(2)80年の東国における独立国家の成立,(3)83年の〈寿永二年十月宣旨〉による東国支配権の公認,(4)85年の守護・地頭設置の勅許,(5)90年の日本国惣追捕使の地位確認,諸国守護権の付与,などの時期に求める諸説がある。このように説が分かれるのは,幕府の本質をどうとらえるかという視角の違いによるのであるから,一つの学説だけを正しいと断定することはできない。
頼朝の死後は子の頼家があとを継いだが,1203年(建仁3)北条時政は頼家を退け,その弟の実朝を鎌倉殿に擁立し,時政みずからは政所別当として執権を称し,ここに執権政治が発足した。時政の子の義時以後は,政所別当に加えて侍所別当までも北条氏が独占的に世襲した。19年(承久1)実朝が暗殺されて源氏が絶えると,幕府は摂関家から頼朝の遠縁にあたる九条頼経を迎えて鎌倉殿としたが(摂家将軍),実朝も頼経も名目だけの鎌倉殿で,頼朝の未亡人である北条政子が実質的な鎌倉殿として,弟の執権義時とともに幕府の実権を握った。21年後鳥羽上皇は承久の乱をおこして討幕を図ったが,敗れて隠岐に流され,この結果,幕府の勢力は飛躍的に向上した。乱後,幕府は京都守護の代りに六波羅探題を置き,京都の警備,朝廷の監視,西国の政務などに当たらせた。25年(嘉禄1)政子が没すると,執権北条泰時は政治改革を行い,独裁政治から合議政治への転換を試み,ここに執権政治は全盛期を迎えた。執権は複数となり(1名がいわゆる連署),評定衆が置かれ,32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の公正が図られた。
泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。74年(文永11),81年(弘安4)の両度のモンゴル襲来にあたり,幕府は戦いの全般を指導し,朝廷が伝統的に保持してきた外交権をも奪って,独断で強硬な外交政策を打ち出し,また前例を破って,本所領から兵糧米を徴発したり,非御家人までも動員したりした。こうして得宗専制は,朝廷・貴族・社寺への強圧としてあらわれたが,他方では御家人の支持を得る必要から,49年(建長1)引付(ひきつけ)を新設して裁判の公正・迅速を図るなど,御家人保護の政策をとった。この間,幕府政治の性格は変わりつつあった。52年には頼経の子の将軍頼嗣も京都に追放され,後嵯峨上皇の皇子の宗尊親王が鎌倉殿として迎えられた。こうして摂家将軍にかわり親王将軍が登場したが,その結果,鎌倉殿はいっそう名目的なものとなった。得宗が一部の要人や御内人を集めて行う私的な寄合(よりあい)が,評定衆の正式の評議にかわって実質的な政務審議機関となり,評定衆は形骸化し,公的な執権よりも私的な得宗の地位の方が,政治上は重要となった。得宗専制の強化に伴い,得宗や御内人に対する御家人の不満は強まったが,85年の弘安合戦では,御家人の期待をになった安達泰盛をはじめ,多数の御家人が滅ぼされ,ここに御家人に対する得宗の専制が確立した。
貨幣経済の発達する中で,御家人の困窮は進んだが,モンゴル襲来による戦費の負担はそれに拍車をかけ,所領を喪失する御家人が増加した。97年(永仁5)幕府は徳政令を出して御家人の所領の売買・質入れを禁じ,すでに売却・質入れした所領を無償で取り戻させた(永仁の徳政)。この法令は御家人の救済を図る一方,御家人たちがその所領に対してもっていた自由な処分権を制限し,幕府が統制を強めようとしたものであり,やはり得宗専制強化の一環であった。しかしこのような政策も御家人を救済することができず,得宗専制に対する御家人の反発に加えて,惣領制の解体,守護の強大化,悪党の横行など,幕府の支配体制を動揺させる動きは強まった。一方,〈治天の君〉や天皇の選定に関する幕府の干渉は,持明院統・大覚寺統の対立を激化させ,両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。大覚寺統の後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き,幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも計画が漏れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵が各地で蜂起し,33年にはついに幕府を滅ぼした。
鎌倉幕府は王朝国家を否定したものではなく,なお旧国家体制やその基盤が強固な状態で成立していた。したがって幕府はすべての武士を組織することができず,幕府が組織した御家人も,荘園制下の職(しき)を知行するのみで,土地・人民に対する一元的支配を完成していなかったし,その職の任免権も本所・領家が掌握している場合が多かった。頼朝挙兵後3年間の東国独立国家の期間を除けば,幕府はその存在を朝廷によって保障されていたのであり,朝廷の下で日本国を守護する諸国守護の機能を果たしていたのである。種々の点から見て幕府は権門(有力貴族)の性格をそなえている。その経済的基礎は一般権門と同様に知行国と荘園(関東御領)である。政所などの幕府機関は権門の家政機関の模倣である。軍事的基礎としての主従結合にしても,権門諸家にも見られるところである。
不入権に代表されるように,荘園領主の家政的な支配権は強く,幕府はその内部に干渉できなかったが,在地領主である御家人の領主権も,幕府権力に対する独立性が強かった。したがって幕府と御家人との主従結合は,ルーズな性格のものであった。しかしその主従結合にはユニークな特性が認められる。従者たる御家人は将軍家領である関東御領の武士だけでなく,全国的に多数の武士が荘園のわくを超えて組織されている。またその主従結合は,幕府を自衛するだけでなく,ひろく諸国守護を担当している。御家人を守護・地頭などに任命するのも,実は鎌倉殿の統率下に,御家人が諸国守護を分担するためなのである。一権門としての性格をもつ幕府は,他面,諸国守護という国家的機能によって,権門の域を超えて公権力たりえたのである。
幕府の性格を考える場合,主従結合とともに領域的支配の面をも忘れてはならない。鎌倉殿と御家人との主従結合は人的結合であっても,御家人は守護を通じて国ごとに編成されていた。このことは,幕府が旧来の地方行政機構である国衙を支配していたことを前提とする。幕府は朝廷から国衙支配権を移譲され,その機能を吸収したのである。国衙に対する幕府の支配は,東国においてはとくに強く,東国での幕府は領域的支配を実現しており,本所間の相論を裁決しうるような高次の権力であった。このような東国支配権は,1183年の〈寿永二年十月宣旨〉によって朝廷から公認されたものであるが,さかのぼって考えると,80年以来3年にわたる東国の独立こそが,幕府の東国支配権の淵源だったのである。
幕府が朝廷によって存在を保障されているという原則は,幕府の滅亡にいたるまでかわりがない。しかし実際は,承久の乱後,幕府は朝廷の権限をしだいに奪い,得宗専制期においては〈治天の君〉の選定権までも掌握し,朝廷の政務への干渉を強めた。また荘園領主の領主権,御家人ら在地領主の領主権にも干渉を加え,幕府への集権を進めていった。一方,このような干渉への反発も強く,それは幕府滅亡の要因ともなった。
→鎌倉時代 →執権政治 →東国 →得宗
執筆者:上横手 雅敬
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12世紀末から1333年(元弘3)までの間,鎌倉を本拠とし,鎌倉殿とよばれる武家の棟梁を首長とした武家政権。幕府の性格規定に関しては,(1)中世国家を,階級的性格を同じくする公家・寺社など本来私的な複数「権門(けんもん)」の相互補完によって成り立つ「権門体制」ととらえ,そのなかで国家的次元での検断・軍事を分担する一権門であるとする説,(2)中世に複数の国家が並存したととらえ,京都から半ば独立した東国政権であり,基本的に同質でありながら,支配者集団の異質性ゆえに王朝国家と異質な部分をもつ「中世国家の第二の型」であるとする説,(3)門閥貴族層を基盤とする官僚制に立つ王朝権力とともに「ブロック権力」を形成する,レーン制的主従関係にもとづく権力であるとする説,などがある。これと密接に関連する幕府の成立時期に関しては,①1192年(建久3)の源頼朝征夷大将軍補任,②1190年(建久元)の頼朝右近衛大将補任,③1184年(元暦元)の公文所(くもんじょ)・問注所設置,④1185年(文治元)の守護・地頭補任勅許,⑤1183年(寿永2)の寿永2年10月宣旨による東国行政権獲得,⑥1180年(治承4)の東国における軍事政権樹立,⑦1190年の頼朝日本国総守護総地頭補任,などの時点を画期とする諸説があり,④⑦が(1)と,⑤⑥が(2)と関連する。今日では①②③は形式的理解にとどまるとの見解が強い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…室町時代と合わせて中世と呼ぶことも多い。終期が鎌倉幕府の滅亡した1333年(元弘3)であることに異論はないが,始期は幕府成立時期に諸説があることと関連して一定しない。ただし1185年(文治1)の守護・地頭の設置に求める説が最有力であり,92年(建久3)の源頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は支持を失っている。…
…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。…
…しかしまったく独立していたわけではなく,戦時には庶子は惣領の下に集まって戦闘集団を形成し,平時には惣領の主催する祖先の供養や家の祭祀を通じて精神的結びつきをもった。また鎌倉幕府や荘園領主から課されてくる公事は惣領から庶子に配分され,庶子は公事を惣領に納めた。幕府はこうした惣領制的結合に応じて,軍役や公事を一括して惣領あてに課したのであり,また惣領を通じて出されてくる庶子の所領安堵や恩賞の請求についても惣領を通じて交付している。…
…この国家がごく短期間で崩壊したのち,武将たちは王朝国家の下にあって,東国土着の勢力との結びつきを強めつつその実力を蓄え,11世紀に入ると,東北にも独自な政権ないし小国家の生まれる兆しが現れてくる。 こうした情勢を背景に,12世紀末の動乱の中で鎌倉幕府が樹立される。その評価については大きく2説に分かれ,王朝国家の軍事・警察の機能を請け負う権門とする説と,将門の伝統を負う自立した東国国家あるいは東国政権とみる説とが対立している。…
※「鎌倉幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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