南北朝時代の公卿(くぎょう)、武将。後醍醐(ごだいご)天皇の信任厚い親房(ちかふさ)の長子として、13歳で左中弁となる新例を開き、その年、後醍醐天皇の北山行幸に供奉(ぐぶ)して華麗な舞い姿を披露したことが『増鏡』にみえる。建武(けんむ)新政とともに16歳で陸奥守(むつのかみ)に任じられ、義良(のりよし)親王を奉じ父親房とともに陸奥に下った。宮城郡多賀(たが)(宮城県多賀城市)を国府とし、苦心して奥羽両国を平定、鎌倉幕府の職制を模した政務機構を整えた。1335年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)が反すると、鎮守府将軍に任じられ、尊氏を追撃して東海道を西上し、新田(にった)、楠木(くすのき)氏らと協力して尊氏を九州に敗走させた。戦局の小康後、顕家は鎮守府大将軍の称を受け、ふたたび義良親王を奉じ陸奥に帰任した。しかし尊氏が勢力を盛り返すと、奥羽の戦局も悪化し、国府から伊達(だて)郡霊山(りょうぜん)(現福島県伊達市霊山町)に移った。後醍醐天皇の再度の要請により37年(延元2・建武4)ふたたび西上、翌38年美濃(みの)国に入ったが青野原で敗れた。伊勢(いせ)、伊賀を迂回(うかい)して奈良から京都をうかがったが、ふたたび敗れた。同行した義良親王を吉野へ送り、同年5月摂津国天王寺で幕府軍と戦い、5月22日和泉(いずみ)国石津(いしづ)で戦死した。
死の1週間前、「諸国の租税を免じ、倹約を専(もっぱ)らにせらるべきこと」「官爵(かんしゃく)の登用を重んぜらるべきこと」など、新政を批判した6か条の意見書を後醍醐天皇に出している。後醍醐天皇と建武新政に青春を賭(か)けた、21年の短い生涯であった。
[熱田 公]
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南北朝期の公卿,武将。北畠親房の嫡男。従二位権中納言。1333年(元弘3),奥州小幕府構想のもとに,建武政権から陸奥守に補任され,後醍醐天皇の皇子義良親王を擁して奥州に下った。35年(建武2)足利尊氏の離反とともに,奥州軍を率いて上洛,尊氏を九州に追った。36年(延元1・建武3)3月,義良親王を奉じていったん奥州へ戻り,奥羽・関東の足利方の攻勢を支えるのに腐心したが,同年6月,尊氏が光厳上皇を奉じて京を奪うと,翌37年8月,再度奥州軍を率いて長征の途にのぼった。38年(延元3・暦応1)正月,美濃青野原で幕府軍と決戦,勝利を得たが,自軍の消耗もはなはだしく,伊勢路に転進して後,畿内各地を転戦。しかし同年5月22日,和泉石津の戦で敗死した。享年21。戦死の直前,彼が後醍醐天皇に呈した5月15日付の諫奏は,建武新政に対する彼の批判を激越な名文にまとめ,当時の貴族層の不満を代弁するものとして著名である。
執筆者:西山 克
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(西山克)
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1318~38.5.22
南北朝期の公卿・武将。親房の長子。建武新政の当初,従三位陸奥守となり,義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて父とともに陸奥へ下り,多賀国府(現,宮城県多賀城市)を拠点に奥羽両国の経営にあたる。1335年(建武2)足利尊氏が離反すると,鎮守府将軍に任じられて西上,尊氏を九州に敗走させた。まもなく再下向するが,北関東・奥羽の戦局悪化にともなって伊達郡霊山(りょうぜん)(現,福島県伊達市・相馬市)に拠点を移す。37年(建武4・延元2)後醍醐天皇の要請で再度西上。翌年正月,美濃国青野ケ原(現,岐阜県大垣市)での勝利後,伊勢・伊賀をへて大和へ入り,同国般若坂(現,奈良市)で敗北。河内・摂津で奮戦するが,和泉国堺浦で高師直(こうのもろなお)に敗れ,石津(いしづ)(現,大阪府堺市)で討死。死の直前,新政を批判する諫草(かんそう)を後醍醐天皇に提出。
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…1338年(延元3∥暦応1)西上する北畠顕家の南朝軍とこれを防ごうとした足利幕府軍との,美濃国不破郡青野ヶ原(現,岐阜県大垣市青野町)における合戦。劣勢となった南朝方の挽回を図った顕家は,前年8月陸奥の霊山城を発して再び西上の途につき,12月末いったん鎌倉を占拠し,1月には東海道の足利方を連破して美濃に入った。…
…大阪市阿倍野区北畠にあり,南朝の忠臣北畠親房・顕家をまつる。顕家は1338年(延元3∥暦応1),足利方の高師直と戦い,5月22日に現在の堺市で討死したが,《太平記》は阿倍野を戦没地と伝え,江戸時代に並河誠所(なみかわせいしよ)によって阿倍野に墓が建てられた。1882年別格官幣社阿部野神社の創建が決せられ,90年に鎮座祭が行われた。また1938年には,当時の南朝顕彰運動の中で,顕家没後600年記念大祭が催された。…
…南北朝時代に高師直らの足利方が,摂津に進攻した南朝方の北畠顕家に反撃を加えて和泉国大鳥郡石津に倒した戦い。1337年(延元2∥建武4)再度陸奥から西上した顕家は,38年(延元3∥暦応1)1月美濃の青野ヶ原に幕府軍と戦ってのち(青野ヶ原の戦),伊勢を経て大和に入り,京都から出撃した幕府執事高師直らと奈良般若坂に戦い,さらに3月山城の男山に拠った弟北畠顕信と呼応して河内,摂津に進出し,北朝および幕府に大きな脅威を与えた。…
… 第1段階は,建武政権下の陸奥国府である。1333年(元弘3)8月陸奥守に補任された北畠顕家が後醍醐天皇の皇子義良(のりよし)(翌年5月親王宣下)を奉戴し,北畠親房や一門の貴族に伴われ,旧幕府の官僚層や奥羽武士らを率いて多賀国府に着任し,体制を整備した。国府に式評定衆と3番の引付(ひきつけ)および政所(まんどころ),評定,寺社,安堵,侍所の諸奉行を置き,陸奥各地に郡奉行所という国府支庁を設置した。…
…陸奥国伊達郡の東端にそそり立つ霊山に築かれた南北朝期の城(現,福島県霊山町)。信仰の山として慈覚大師開基という霊山寺が営まれ,最盛時3600坊の勢力を誇ったといわれるが(《霊山寺縁起》),1337年(延元2∥建武4)1月,鎮守府大将軍陸奥大介の北畠顕家が陸奥大守の義良(のりよし)親王を奉じて入山し,城郭を整備して国府の機能をここに移すに及び,あらためて全国的に注目された。山頂近くの国司館といわれる5間×4間の大礎石群を中心として,数多くの遺構が確認されている。…
※「北畠顕家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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