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北畠顕家 きたばたけ あきいえ

美術人名辞典の解説

北畠顕家

南北朝時代の公卿武将。親房の長男。鎮守府将軍となり、新田義貞と共同して足利尊氏に対抗する。後醍醐天皇の比叡山への遁入を守護し、父・義貞と尊氏と戦い九州へ敗走させる。顕家蓬奏(建武政府に対する六ヶ条からなる意見書)は、最後の出陣に当たって後醍醐天皇に上呈したものである。延元3年(1338)歿、21才。

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百科事典マイペディアの解説

北畠顕家【きたばたけあきいえ】

南北朝時代の公卿(くぎょう),武将。親房の子。1333年陸奥(むつ)守。義良(のりよし)親王を奉じて奥羽を鎮定,1335年鎮守府将軍を兼ねた。足利尊氏が建武政権に反した際,上洛してこれを西走せしめ,奥州へ戻ったが,尊氏再挙し南北両朝分立するに及んで再びこれを討とうとして西上,和泉で敗死した。
→関連項目北畠氏後村上天皇多賀城陸奥将軍府霊山城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北畠顕家 きたばたけ-あきいえ

1318-1338 南北朝時代の公卿(くぎょう),武将。
文保(ぶんぽ)2年生まれ。北畠親房(ちかふさ)の長男。建武(けんむ)の新政下,16歳で陸奥守(むつのかみ)となる。鎮守府将軍となって足利尊氏を九州に敗走させ,従二位,権(ごんの)中納言。建武5=延元3年5月22日高師直(こうの-もろなお)軍に敗れ,和泉(いずみ)(大阪府)石津で戦死。21歳。最後の出陣前に「顕家諫奏(かんそう)」を後醍醐(ごだいご)天皇に上呈した。
【格言など】令出でて行われざれば,法なきにしかず(「顕家諫奏」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

北畠顕家

没年:暦応1/延元3.5.22(1338.6.10)
生年:文保2(1318)
南北朝時代の公卿,武将。北畠親房の長男。後醍醐天皇に寵愛され,異常なスピードで昇進した。元弘1(1331)年3月5日,西園寺公宗の北山第に行幸した天皇が花の宴で自ら笛を吹き,顕家の陵王の舞いを賞玩したのは有名である。正慶2/元弘3年8月5日には従三位,陸奥守に任じられた。鎌倉幕府が滅亡し,建武政権が成立すると,同年10月20日,後醍醐天皇の皇子義良親王(後村上天皇)を奉じて父親房と共に陸奥に下向,多賀城(宮城県多賀城市)を国府とした。建武2(1335)年から翌年にかけて,鎌倉で反旗を翻した足利尊氏を追撃して西上,尊氏を九州に追った。その後,京都を奪回した足利軍追討のために再び奥州軍を率いて西上,暦応1/延元3(1338)年1月美濃青野ケ原の戦に勝利したが,伊勢に転身してのち利あらず,ついに同年5月22日,高師直と和泉堺および石津に戦って敗死した。享年21歳。建武政権の政道を痛烈に批判した同15日付の奏状が残り,顕家の人柄を忍ぶことができる。

(西山克)

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世界大百科事典 第2版の解説

きたばたけあきいえ【北畠顕家】

1318‐38(文保2‐延元3∥暦応1)
南北朝期の公卿,武将。北畠親房の嫡男。従二位権中納言。1333年(元弘3),奥州小幕府構想のもとに,建武政権から陸奥守に補任され,後醍醐天皇の皇子義良親王を擁して奥州に下った。35年(建武2)足利尊氏の離反とともに,奥州軍を率いて上洛,尊氏を九州に追った。36年(延元1∥建武3)3月,義良親王を奉じていったん奥州へ戻り,奥羽・関東の足利方の攻勢を支えるのに腐心したが,同年6月,尊氏が光厳上皇を奉じて京を奪うと,翌37年8月,再度奥州軍を率いて長征の途にのぼった。

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大辞林 第三版の解説

きたばたけあきいえ【北畠顕家】

1318~1338) 南北朝時代の公家・武将。親房の長子。1333年、陸奥むつ守に任ぜられ、義良のりよし親王(のちの後村上天皇)を奉じて下向、鎮守府将軍を兼ねた。足利尊氏が建武政権に叛すると、親王を奉じて各地に転戦、和泉石津で戦死した。最後の出陣にあたって、六か条からなる諫奏かんそうを後醍醐天皇に呈した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北畠顕家
きたばたけあきいえ

[生]文保2(1318)
[没]延元3=暦応1(1338).5.22. 和泉,石津
南北朝時代の公卿,武将。親房の長男。元弘3=正慶2 (1333) 年,建武中興政府により陸奥守に任じられ,鎮守府将軍を兼ね,義良 (よしなが) 親王を奉じて同年 10月陸奥におもむき,出羽国をも経営した。建武2 (35) 年,親王を奉じて西上,延元1=建武3 (36) 年足利尊氏を九州に敗走させたのち再び親王を奉じて任国へ下った。後醍醐天皇の吉野遷幸に際し,義良親王を奉じて西上し,転戦して鎌倉を陥れた。延元3=暦応1 (38) 年1月,親王を奉じて美濃青野原において北朝軍と戦い,伊勢,次いで大和に入ったが敗れ河内に走り,同年5月,和泉堺浦,石津に高師直と戦って戦死。死後,従一位右大臣を追贈された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北畠顕家
きたばたけあきいえ
(1318―1338)

南北朝時代の公卿(くぎょう)、武将。後醍醐(ごだいご)天皇の信任厚い親房(ちかふさ)の長子として、13歳で左中弁となる新例を開き、その年、後醍醐天皇の北山行幸に供奉(ぐぶ)して華麗な舞い姿を披露したことが『増鏡』にみえる。建武(けんむ)新政とともに16歳で陸奥守(むつのかみ)に任じられ、義良(のりよし)親王を奉じ父親房とともに陸奥に下った。宮城郡多賀(たが)(宮城県多賀城市)を国府とし、苦心して奥羽両国を平定、鎌倉幕府の職制を模した政務機構を整えた。1335年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)が反すると、鎮守府将軍に任じられ、尊氏を追撃して東海道を西上し、新田(にった)、楠木(くすのき)氏らと協力して尊氏を九州に敗走させた。戦局の小康後、顕家は鎮守府大将軍の称を受け、ふたたび義良親王を奉じ陸奥に帰任した。しかし尊氏が勢力を盛り返すと、奥羽の戦局も悪化し、国府から伊達(だて)郡霊山(りょうぜん)(現福島県伊達市霊山町)に移った。後醍醐天皇の再度の要請により37年(延元2・建武4)ふたたび西上、翌38年美濃(みの)国に入ったが青野原で敗れた。伊勢(いせ)、伊賀を迂回(うかい)して奈良から京都をうかがったが、ふたたび敗れた。同行した義良親王を吉野へ送り、同年5月摂津国天王寺で幕府軍と戦い、5月22日和泉(いずみ)国石津(いしづ)で戦死した。
 死の1週間前、「諸国の租税を免じ、倹約を専(もっぱ)らにせらるべきこと」「官爵(かんしゃく)の登用を重んぜらるべきこと」など、新政を批判した6か条の意見書を後醍醐天皇に出している。後醍醐天皇と建武新政に青春を賭(か)けた、21年の短い生涯であった。[熱田 公]

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世界大百科事典内の北畠顕家の言及

【青野ヶ原の戦】より

…1338年(延元3∥暦応1)西上する北畠顕家の南朝軍とこれを防ごうとした足利幕府軍との,美濃国不破郡青野ヶ原(現,岐阜県大垣市青野町)における合戦。劣勢となった南朝方の挽回を図った顕家は,前年8月陸奥の霊山城を発して再び西上の途につき,12月末いったん鎌倉を占拠し,1月には東海道の足利方を連破して美濃に入った。…

【阿部野神社】より

…大阪市阿倍野区北畠にあり,南朝の忠臣北畠親房・顕家をまつる。顕家は1338年(延元3∥暦応1),足利方の高師直と戦い,5月22日に現在の堺市で討死したが,《太平記》は阿倍野を戦没地と伝え,江戸時代に並河誠所(なみかわせいしよ)によって阿倍野に墓が建てられた。1882年別格官幣社阿部野神社の創建が決せられ,90年に鎮座祭が行われた。また1938年には,当時の南朝顕彰運動の中で,顕家没後600年記念大祭が催された。…

【石津の戦】より

…南北朝時代に高師直らの足利方が,摂津に進攻した南朝方の北畠顕家に反撃を加えて和泉国大鳥郡石津に倒した戦い。1337年(延元2∥建武4)再度陸奥から西上した顕家は,38年(延元3∥暦応1)1月美濃の青野ヶ原に幕府軍と戦ってのち(青野ヶ原の戦),伊勢を経て大和に入り,京都から出撃した幕府執事高師直らと奈良般若坂に戦い,さらに3月山城の男山に拠った弟北畠顕信と呼応して河内,摂津に進出し,北朝および幕府に大きな脅威を与えた。…

【陸奥将軍府】より

… 第1段階は,建武政権下の陸奥国府である。1333年(元弘3)8月陸奥守に補任された北畠顕家が後醍醐天皇の皇子義良(のりよし)(翌年5月親王宣下)を奉戴し,北畠親房や一門の貴族に伴われ,旧幕府の官僚層や奥羽武士らを率いて多賀国府に着任し,体制を整備した。国府に式評定衆と3番の引付(ひきつけ)および政所(まんどころ),評定,寺社,安堵,侍所の諸奉行を置き,陸奥各地に郡奉行所という国府支庁を設置した。…

【霊山城】より

…陸奥国伊達郡の東端にそそり立つ霊山に築かれた南北朝期の城(現,福島県霊山町)。信仰の山として慈覚大師開基という霊山寺が営まれ,最盛時3600坊の勢力を誇ったといわれるが(《霊山寺縁起》),1337年(延元2∥建武4)1月,鎮守府大将軍陸奥大介の北畠顕家が陸奥大守の義良(のりよし)親王を奉じて入山し,城郭を整備して国府の機能をここに移すに及び,あらためて全国的に注目された。山頂近くの国司館といわれる5間×4間の大礎石群を中心として,数多くの遺構が確認されている。…

※「北畠顕家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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