佐沼宿(読み)さぬましゆく

日本歴史地名大系 「佐沼宿」の解説

佐沼宿
さぬましゆく

[現在地名]迫町佐沼

近世には栗原郡北方きたかた村に属し、大崎おおさき平野の北東部の迫川流域に位置し、登米郡と栗原郡および領内北部と仙台城下を結ぶ枢要の地にある。「日本後紀」延暦一八年(七九九)三月七日条にみえる讃馬さぬま郡の遺称地と思われる。藩政初期から宿老の津田氏の居屋敷のあったところで、宝暦七年(一七五七)に津田氏に替わって一家の亘理氏が居住した。栗原郡藤沢ふじさわ瀬峰せみね(現瀬峰町)へ三里一五町三〇間、登米郡西郡にしこおり(現東和町)へ二里三八間、登米郡石森いしのもり(現中田町)へ三五町四三間、登米郡黒沼くろぬま(現中田町)へ一里八町三二間、遠田とおだ西野にしの米岡よねおか(現米山町)へ二里八町一五間。天正一九年(一五九一)葛西大崎一揆が終焉し、伊達家臣湯目(のち津田)氏が佐沼城を居館とした。同年七月迫川西岸に飯田筑前を検断として一町五一間、横八間の一市ひといち町を作り、人頭二五人・高一四貫一四八文が置かれた。一市町は元の位置より一町東に移転して割出され、本一市もとひといち町は居館に直交する侍屋敷となった。正保三年(一六四六)長さ一町五八間(「迫町史資料」所収の宝暦絵図では二町八間)、横七間半の五日いつか町が人頭二八人・高一六貫五八文で迫川東岸に割出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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