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佐沼城 さぬまじょう

日本の城がわかる事典の解説

さぬまじょう【佐沼城】

宮城県登米(とめ)市迫(はさま)町にある戦国時代の平城(ひらじろ)で、江戸時代には仙台藩21要害の一つとされた。同県東北部の迫川流域の低地のほぼ中央部に位置し、北・東が迫川、西側が湿地で守られた城だった。文治年間(1185~90)に藤原秀衡(ひでひら)の家臣である照井太郎高直が居城としていたと伝わるが、定かではない。南北朝時代の1338年(延元3/暦応1)に葛西氏が寺池城(同市内)とともに佐沼城を拠点にしたといわれる。室町時代半ばになると大崎氏の城となり、その後、城の所有は葛西・大崎両氏とたびたび入れ替わる。城をめぐり攻防が繰り返されたと考えられている。1590年(天正18)の豊臣秀吉による奥州仕置により葛西・大崎氏が滅亡すると、秀吉臣下の木村吉清が両氏の旧領を引き継いだ。改易となった葛西氏17代当主の晴信は、寺池城から佐沼城に居城を移して秀吉の仕置に抵抗し、検地に向かった木村吉清・蒲生氏郷の軍勢に戦いを挑み、各地を転戦したがついに佐沼城で自害したという記録がある(なお、その後も生存したという記録もある)。その後間もなく、同年10月に葛西・大崎氏の旧臣による大規模な一揆(葛西大崎一揆)が起こるが、この一揆では逆に寡兵の木村吉清・清久父子が佐沼城に立て籠もり防戦を余儀なくされ、蒲生氏郷(がもううじさと)、伊達政宗(だてまさむね)の援軍により救出されている。その後、秀吉に呼び出された政宗の留守を衝いて一揆勢が再び蜂起。帰国した政宗は鎮圧に乗り出し、2500人が立て籠もる拠点・佐沼城を攻めて落城させている。一揆鎮圧後、城は徳川家康により修復され、秀吉より米沢から旧葛西・大崎領への国替えを命じられた伊達政宗に引き渡され、政宗は家臣の湯目景康(のちに津田と改姓)を配した。1756年(宝暦6)に当時の城主(津田氏)が藩主伊達重村の不興を買って所領没収・改易処分となったため亘理氏の城となり、その後は亘理氏6代を城主とする仙台藩21要害の一つとして明治維新時まで存続した。現在、本丸と二の丸跡の一部が鹿ヶ城公園となっている。曲輪(くるわ)、土塁、空堀、井戸、碑、大手門跡などが残っている。また同公園近くには登米市歴史博物館があり、佐沼城に関する常設展示が行われている。JR東北本線新田駅からバス約15分。◇鹿ヶ城とも呼ばれる。なお、この城名は築城の際、鎮護のために鹿を生き埋めにしたことに由来するといわれている。

出典|講談社日本の城がわかる事典について | 情報

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