朝日日本歴史人物事典 「佐竹昌義」の解説
佐竹昌義
平安末期常陸国(茨城県)の武将。源義業と常陸大掾馬場(吉田)平清幹の娘の子。新羅三郎(源義光)の孫。佐竹冠者。下野守。信濃守。常陸国久慈郡佐竹郷馬坂に住み,初めて佐竹を称す。陸奥押領使藤原清衡の娘を妻とし,藤原秀郷の子孫の藤原氏小野崎通長を服属させ,常陸国奥七郡(那珂西,那珂東,久慈西,久慈東,佐都西,佐都東,多珂)の郡務を支配。常陸北部に勢力を確立した。平治の乱(1159)ののち北総に進出。子の義宗は源義朝に属した千葉常胤の所領下総国相馬御厨を伊勢神宮に寄進。承安4(1174)年には子の雅楽助や義宗,在庁官人と共に,常陸中郡荘下司の経高を逮捕。治承4(1180)年,挙兵に際し源頼政は昌義の参加を期待した。<参考文献>『常陸太田市史』
(松井茂)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報